¶1 私の出生証明書上の実母の名前は、現在の公簿上のそれと違います。 もちろん父親も同じですが。 実母を探す旅が始まったいくつかのきっかけの一つでした。 もしやと思ってフェイスブックで出生証明書上の名前で検索してみました。 その中の一人のアカウントに注目するようになりました。 なぜなら、同じ人のように二つの写真を載せておきましたが、私の目には他の二人に見えたからです。 普通、このような場合を見逃さずによく見ていくと、何かを発見するというのが私の経験則でした。 確か、アカウントのプロフィール上の名前はハングルでしたが、写真の雰囲気は直感的に韓国ではないようでした。 カフェや飲食店で撮ったような写真だったんですけど、タイルの床でそんな感じがしたんですよ。 私はタイ·バンコクのある政府間機構で6ヶ月間インターンシップをしたことがあり、東南アジア諸国の建築様式に少し慣れていました。 主に暑い国の建物に施工された、床のような感じでした。 案の定、写真の背景の壁にかかっているカリグラフィーのような装飾品を注意深く見ました。 やっぱり東南アジアの国々の中の一つの国の言語のように見えました。 これを発見したのはかなり昔のことでしたが、その時は検索でいくつかの国の文字を照らし合わせた結果、ぴったり合うほどではなかったでしたが、ミャンマーかカンボジア語ではないかと暫定的に結論を下していました。 この方の写真を注目したのは、科学的な外見の類似性のためでもありました。 遺伝性が最も大きい部分が鼻先の模様、唇の厚さ、そして目の内側の模様で実証されています(NAVERブログ参照、3番目の絵および絵に対する注釈:リンク)。 私と非常に似ている部分でしたね。 これは写真の主人公が、私が実母や関係者と推定した他の方々と最も差別される部分でした。 しかし、カンボジア、またはある東南アジアの国と私を結びつけるだけの何の端緖がかりもなくて、しばらく視野を他の場所に移して探索するようになりました。
¶2 ところが、昨日の偶然のきっかけで、今まで少し留保していた上記の発見についてまた考えてみる事ができました。 私は菜食をしていて、昨日もいつも寄ってくる八百屋に、非常に大きい大根を二つ買いました。 かなり重いですね。 これを持って宿所に帰ってくるが、部屋に入ったら携帯電話もコンピューターもテレビもない私はすることがないと思い、本を借りようと図書館に足を運んだんです。 すでに重いものを持っている状況では、 僕がほとんどやらない行動の一つでした。 普通ある偶然はこんなふうに訪れます。 図書館に到着したらとてもつらくて一応柔らかいような椅子に座りました。 少し休んでから本を選ぶつもりでした。 それで自然に座った席のすぐ前に置かれた本棚に目が留まりました。 それは地域図書館ではめったに見られないマイナー(minor)外国語関連書籍が差し込まれている書架でした。 最初はどういう理由か分かりませんが、 「ミャンマー語」があるか探してみました。 なかったでした。なんでミャンマー語を 探したのか、まだ理解できません。ただ、おそらく最近のミャンマー事態が無意識的に作用したようです。 そうするうちに目がカンボジア語で止まりました。 たった一冊ありました。 出してみました。 内容自体はとても疲れていて、目に入りにくいですね。 ただ、文字の形が以前見た写真の中の扁額のそれと似たものだけを見て閉じそうとしました。 本を閉じようとした瞬間、このような少数言語に関する本を書く著者について知りたくなりました。 本の翼の部分を開きました。 著者の略歴が記されていました。 その時私の目を捕らえたのがありました。 「摩訶[maha]XX運営」
¶3 日本語では書いたことありませんが、私は別のSNSで自分が「監視」されている状況に慣れていて、ここで感じる感情について何度か表現したことがあります。 それで今は図書館でもどこに行っても誰が「監視者」として入ってきているのかよく分かる方です。 私は釜山の南区という行政区域にある宿所で暮していますが, ここから近い南区図書館も監視の例外ではありませんでした。 もちろん、誰かが付いているということもすぐに気付くことができました。 私がこの話を切り出した理由は、その中の一人の図書館IDが「maha」から始まるからです。 面白い事実ですよね? またあの人が来たのかと思って予約の状況を調べていて見つけたんです。 予約者IDの文字のうちいくつか公開されていたため可能だったのです。 マハがカンボジアを含め、似たような文字を使う東南アジアの数ヵ国で使われる単語であることが、簡単な検索で分かりました。 インドシナ半島諸国の言語は専攻者でなければ書く人が極めて少ないことと、私が日頃感じているその人への直感から、それ以前に暫定的に実母推定をしていた、私の出生証明書上の名前に入ってみたある方のフェイスブックアカウントを思い起こさせたのでした。
¶4 それだけでなく、上で述べたバンコクでのインターン時代、誰かが韓国からタイに旅行に来ると連絡をしてきたことがあります。 その人の普段の行動から見ると、私がどこかの国に滞在中だからといって、私に会いに来ることを兼ねて旅行に来る人ではなかったんですが。 それもそのはず、その人は急に目的地をタイからカンボジアに変えて行ってたんですよ。 当時、今知っていることを何も知らなかった私は、その人とカンボジアからでも遭遇するか相談してみましたが、先にタイで会おうと言い出したその人があえてこの提案を断るのを見て少しおかしいなと思いました。 これもまた振り返ってみると、実母と関係があったのではないかと推定されます。 このインターン勤務は修士課程と関連したプログラムを通じて選抜されたものですが、同じ課程の一人の弟と離れる直前に交わした会話も覚えています。 彼は「[現地の人たちと]外見が似ている」よく適応するだろうと言いますね。 もちろん、隣にいた姉が、真顔で、私はどこを見て東南アジア人のような顔をしているのだろうと反問し、少し穏やかになりましたが、彼の発言は長い間記憶に残るものでした。 日本や中国はともかく、東南アジアのほうと似てるという言葉はほとんど聞いたことがないからです。 実は私はその弟の発言が少し理解できます。 自分が実母を探す過程で頼りになったのはもっぱら私の眼でしたが、何らかの事前調査によって形成された心象を持ったままで、或る人物を探索したり、選り分けるための比較作業を行っているうちに、その事前情報に「継ぎ合おうとする」傾向が生じるということがわかりました。 例えば、あるいい顔をしている方が容疑線上(?)に上って、いくつかの手掛りが当たると思ったら、「この人がお母さまだったらいいのに」という感情がわいてくるもので、多少の偏りがあることを経験したからでした。 同じように、その弟も私のことを事前に知っていることがあるから、そんなことを言ったのだと思います。 それだけでなく、学位過程の多くの同僚が私より私についてよく知っていたことを後になって知りました。 これは修士課程だけにとどまりません。 その後の博士課程は言うまでもなく、その前の大学時代、またその前の軍服務時代に出会った人たちまで。
¶5 おそらく、最後のパズルのピースが組み合わさったようですが、今は何かを断定することに慎重になってきています。 人は本能上「説明」になっている状態にとどまり、不確実性が取り除かれた方へ心が向くように手なずけられているからです。 もし推測が正しいのであれば、多くのことが一つにつながっていくと思います。 私は今の宿所に入る前、ゲストハウスという形の宿泊施設に2ヶ月ほど泊まりました。 その時、その施設のコンピュータを使って上で述べたFacebookアカウントの主人公と同一人物またはその方と緊密な関係者と推定される、別の名前のFacebookユーザーのプロフィール写真をアップロードして作業をしたことがありました。 その様子を後ろから宿泊客のお一人が見ていて、後で廊下の階段を下りながらガラスドア一つを挟んで通り過ぎたことがありましたが、その時その方が隣の人に話しているのを聞きました。 「[あの人]お母さん探しに来た」。 その後、ゲストハウスにたまたま立ち寄った宿泊客のように、泊まることになった多くの人々と遭遇(?)したが、後に同じ顔立ちの分析と会話内容を分析を通じて、私が実母を探しているのと無関係ではなかった人であることがわかりました。 昨日の偶然に触発された一連の考えは、すべて事後的につながるようです。
¶6 人は最近までつづいた考え、ある分析の対象、そしてその分析の枠組みで現在新たに迎える現象を見つめることもまた影響を受けるものです。 私の場合は自然科学的なもの、特に物理学に関することがいまのいろいろな観点から影響を与えています。 だから、現代物理学に関する一つの例えを挙げたいと思います。 肉屋が一つあると言いますね。 店主は肉に対する常識が豊富です。 しかし彼は、肉の重さを正確にわかりません。 いつもデジタル秤に掛けてこそ、顧客に正確な重さの肉をその重さに比例した価格で売ることができます。 はかりには量るのに必要なハードウェアとソフトウェアが一緒に入っています。 そのソフトウェアには計算に必要な公式とその中の変数を繋げて正確な計算を可能にする常數があると仮定しましょう。 店主は顧客の間では「肉博士」と呼ばれている「専門家」ですが、いざ秤の中の公式と常数が何なのかわかりません。 ある肉屋の店主は好奇心が強くて、公式や常数を知っていることも仮定しましょう。 ところがその店主ですら、その公式の論理的なつながりを理解するだけで、その中の常数がどこから、どう出たのかわかりません。 この主人は,前述の「肉博士」よりもよく知っている人なので,「肉の教授」としましょう。 では、質問を投げてみましょう。 顧客である私たちは肉の重さに関して店主を信頼することができるでしょうか? 答えは「いいえ」です。 彼らは嘘つきかもしれませんが、この世で最も正直な人だとしても、この質問に対する答えは「はい」にはなれません。 その常数がなぜよりによってそうなっているのか分からないとすれば、量りが指示する肉の重さが正確なのか言えないからです。 では、誰が知っているのでしょうか。 私には分かりません。 しかし私は確かに一つは分かります。 肉博士と肉教授より秤を作った人がもっとよく知っているということを。 しかし、人々は実際に肉を扱って、切って売って、値段を決めて、ある部位がおいしいという面白い情報を与える肉博士と肉教授だけを見つめています。 そして彼らを信じています。
¶7 上の段落で何が書かれているのか分かると思います。 今の物理学がそうです。 店主や顧客、はかりがそれぞれ誰と何に例えたのかもお分かりでしょう。 この例えをあげたのは、こうした現象が物理学だけに止まらないということを述べるためです。 肉の本質を自然の本質になぞらえているわけですから、他のすべての社会現象の本質についても事情は同じです。 自分が実母を探す過程で切なく感じたのは、自分が実母と離れ離れになり、それは秘密にされ、その真実に近づくことそのものが不利益となる現実が、上に述べた比喩が登場した背景と無関係ではないという事です。 世の中はあまりにも多くの嘘で囲まれています。 それは嘘がまた別の嘘を産んだからです。 しかしほとんどの人は、不幸にも、自分が嘘の中にいることさえ知らないようです。 私は今まで書いてきた文章から無意識的にも意識的にも「奴隷」という言葉をよく使ってきたようですが、それは認識さえ不可能な偽りの層位のためにそういうものでした。 所詮、自分の意志で生きていけない状態を指す意味での「奴隷状態」は、昔から存在していたもので、不平等は生まれながらに存在するものですから、この形式的な意味での奴隷には触れる理由もないのでした。 人が私が意味する「奴隷状態」に置かれるようになるのはまさに人そのもの自身のためのようです。 ごう慢で貪欲だからだと思います。 自分が嘘の中にいることも知らず、嘘をついています。 罪を犯すのも知らず罪を犯します。 相手が私の行う嘘を知らないだろうという高慢のせいであり、私の行う嘘の結果が相手に迷惑をかけるわけではないという無知のせいであり、その結果が私に大きな利益をくれるから追求するしかない貪欲のためです。 もっと大きな問題は、この世界を維持するためには人間たちはこのようなとんでもないことを続けなければならないということです。
¶8 今日は韓国で、私が見る限りでは全くそうではありませんが、誰かの目にはとても重要な選挙がある日です。 最も大きい二つの都市の長を選んだからだし、それが続く大統領選挙の結果につながると思ってそう思うようです。 私はこの文章を終えて、投票する代わりに映画でも見に行こうと思っています。 もしかしてこれも誰かの望み通りになるのでしょうか^^。私は貧しくて韓国の社会福祉制度の中の一つに頼っていますが、そこで文化生活をしろと補助してくれる一定金額があります。 映画や本の購入など使い道が限られていて、食べ物の代わりにこういうところに使うしかないんですよ。 代わりに映画館でおいしいポップコーンを 買って食べればいいんです^^。 特に今日はこの福祉制度の受給者が映画を見る場合、半額で見られるイベントを行う日ですから。 天気も本当に暖かくていいです。 私が寒さが嫌いで暑さはまあまあ耐え忍ぶ方ですが、これも生みの親の影響が大きいでしょう。 私が実母を探した重要な理由の一つは、生存の有無を調べるためでもありました。 誰か私に躍起になって隠すことがあり、もしやそれが私の実母の安否とも関係しているのではないかと思ったからです。 私に隠す事なら私に良くない事ですから。 もしあの上の段落からの推測が正しければ、少なくとも実母は元気なので、心配は軽くなりました。 もちろん、これもまた断定は難しいことですが…。 写真の中のあの方は本当に美しいですね。 とても鼓舞的な事ですが、これもまた私が無邪気に心に抱いて幸せを生み出す事ができるかわかりません。 今までそうだったように、これからもただ馬鹿みたいに生きていくつもりです。 馬鹿を慰めるラテン語の警句が一つあります。図書館でパソコンを使える時間がほとんどなくなっていきますね。 その警句で終わります。 Fortuna favet fatuis。
¶1 제 출생증명서 상의 친모의 이름은 현재 공부상의 그것과 다릅니다. 물론 부친도 마찬가지입니다만. 친모를 찾는 여정의 시작이 된 몇 가지 계기 중 하나였었지요. 혹시나 싶어 페이스북에서 출생증명서상의 이름으로 검색을 해 봤습니다. 그 중 한 분의 계정에 주목하게 되었지요. 왜냐면 같은 사람인 양 두 개의 사진을 올려 놨지만 제 눈엔 다른 두 사람으로 보였기 때문입니다. 보통 이런 경우를 놓치지 않고 잘 들여다 보면 뭔가를 발견하게 되었던 게 제 경험칙이었습니다. 분명 계정의 프로필 상 이름은 한글이었지만 사진의 분위기는 직감적으로 한국이 아닌 듯 했습니다. 카페나 음식점에서 찍은 듯한 사진이었는데, 타일 바닥에서 그런 느낌을 받았더랬죠. 저는 태국 방콕의 한 정부간 기구에서 6개월 간 인턴을 한 적이 있어서 동남아국가의 건축양식에 조금 익숙했더랬습니다. 주로 더운 나라의 건물에 시공된 바닥의 느낌이었지요. 아니나 다를까, 사진 배경의 벽에 걸려 있는 캘리그라피 같기도 한 장식품을 유심히 봤습니다. 역시 동남아시아 국가 중 한 국가의 언어같아 보였습니다. 이걸 발견한 건 꽤 오래 전의 일이었는데, 그 땐 검색으로 몇 개 국가의 문자를 대조해 본 결과 딱 떨어지진 않았지만 미얀마 또는 캄보디아어이지 않을까 잠정적으로 결론을 내려놓고 있었습니다. 이 분의 사진을 주목했던 건 과학적인 외모의 유사성 때문이기도 했습니다. 유전성이 가장 큰 부분이 코 끝의 모양, 입술의 전체 두께, 그리고 눈 안쪽의 모양으로 실증되어 있습니다(제 네이버 블로그 참조, 3번째 그림 및 그림에 대한 주석:링크). 저하고 많이 닮은 부분이었지요. 이건 사진의 주인공께서 제가 친모 또는 관계자로 추정했던 다른 분들과 가장 차별되는 부분이었기도 했고요. 하지만 캄보디아, 또는 어떤 동남아시아의 한 국가와 저를 연결지어 볼 만한 아무 단서도 없어 잠시 시야를 다른 곳으로 옮겨 탐색하게 되었고요.
¶2 그런데 어제 우연한 계기로 그간 잠시 유보해 두고 있던 위의 발견에 대해 다시 생각해 볼 만한 일이 생겼습니다. 저는 채식을 하고 있고, 어제도 늘 들리는 야채가게에 가 무우 큰 거 두 개를 샀습니다. 꽤 무겁더군요. 이걸 들고 숙소로 돌아오는데, 방에 들어가면 휴대폰도, 컴퓨터도, TV도 없는 저는 할 게 없다는 생각에 책을 빌리고자 도서관으로 발걸음을 옮겼더랬습니다. 이미 무거운 걸 들고 있는 상황에서는 제가 거의 하지 않는 행동 중의 하나였지요. 보통 어떤 우연은 이런식으로 찾아오더군요. 도서관에 당도하자 너무 힘들어 일단 푹신해 보이는 의자에 앉았습니다. 조금 쉬었다가 책을 고를 생각이었죠. 그래서 자연스레 앉은 자리 바로 앞에 놓인 책장에 눈길이 갔습니다. 그건 지역도서관에선 좀처럼 보기 드문 마이너(minor) 외국어 관련 서적들이 꽃힌 서가였죠. 처음엔 무슨 이유에서인지 몰라도 '미얀마어'가 있나 찾아 보았습니다. 없더군요. 왜 미얀마어를 찾았는지 아직도 이해를 못하겠습니다만, 아마도 최근의 미얀마 사태가 무의식에서 작용했나 봅니다. 그러다 눈길이 캄보디아어에서 멈췄습니다. 단 한 권 있더군요. 꺼내봤습니다. 내용 자체는 너무 피곤한 상태라 눈에 잘 들어오지 않더군요. 그냥 문자의 생김새가 예전에 봤던 사진 속 현판의 그것과 비슷한 것인지만 보다 덮으려 했습니다. 책을 덮으려던 순간, 이런 소수 언어에 관한 책을 쓰는 저자에 대해 궁금해졌습니다. 책 날개를 폈더랬죠. 저자의 약력이 나와있습니다. 그 때 제 눈을 사로 잡은 것이 있었습니다. "마하XX 운영".
¶3 일본어로는 쓴 적이 없지만, 저는 다른 SNS를 통해 제가 '감시'되고 있는 상황에 익숙하고, 여기서 느끼는 감정에 대해 몇 번 표현한 적이 있습니다. 그래서 지금은 도서관이든 어딜 가도 누가 '감시자'로 들어와 있는지 잘 알아차리는 편입니다. 저는 부산의 남구라는 행정구역에 소재한 숙소에서 지내고 있는데, 여기서 가까운 남구도서관도 감시의 예외가 아니었습니다. 물론 누군가 붙어 있다는 것도 바로 알아챌 수 있었고요. 제가 이 얘기를 꺼낸 이유는 바로, 그 중 한 사람의 도서관 아이디가 "maha"로 시작하기 때문입니다. 재미있는 사실이죠? 또 그 사람이 왔나 싶어 예약현황을 살펴보다 발견한 것입니다. 예약자 아이디의 앞 글자 몇 개가 공개되어 있거든요. 마하가 캄보디아를 포함해 비슷한 문자를 쓰는 동남아 몇 개국에서 쓰이는 단어인걸 간단한 검색으로 알 수 있었습니다. 인도차이나반도 국가의 언어는 전공자가 아니면 쓰는 사람이 극히 적다는 점과, 제가 평소 느끼고 있던 그 사람에 대한 직감을 연결해 볼 때 앞서 잠정적으로 친모추정을 했던, 제 출생증명서상의 이름으로 들어가 본 어떤 분의 페이스북 계정을 강하게 떠올리게 했던 것이었죠.
¶4 뿐만 아니라, 위에서 언급했던 방콕에서의 인턴시절, 누군가 한국에서 태국에 여행온다고 연락을 해 온 적이 있습니다. 그 사람의 평소행동으로 볼 때, 제가 어느 국가에 체류 중이라고해서 저를 보러 올 것을 겸해 여행을 올만한 사람은 아니었지만요. 그도 그럴 것이, 그 사람은 갑자기 목적지를 태국에서 캄보디아로 바꿔 다녀갔더랬죠. 당시 지금 알고 있는 걸 아무 것도 몰랐던 저는, 그 사람과 캄보디아에서라도 조우할까 상의해 보았지만 먼저 태국에서 보자고 얘기를 꺼낸 그 사람이 굳이 이 제안을 마다하는 것을 보고 조금 이상하다는 생각도 들었더랬습니다. 이 또한 돌이켜 보면 친모와 관련이 있었지 않았나 추정해 봅니다. 해당 인턴근무는 석사과정과 연계된 프로그램을 통해 선발된 것이었는데, 같은 과정의 한 동생과 떠나기 직전에 나눈 대화도 기억납니다. 그가 이렇게 말하더군요, "[현지인들과] 외모가 비슷해" 잘 적응할 거라고요. 물론 옆에 있던 동료 누나가 정색하며 제가 어딜봐서 동남아시아인들처럼 생겼나며 반문해 조금 누그러들었지만, 그의 발언은 오래도록 기억에 남는 것이었습니다. 일본이나 중국은 몰라도 동남아 쪽과 닮았단 말은 거의 들어본 적이 없었거든요. 사실 저는 그 동생의 발언이 조금은 이해가 갑니다. 제가 친모를 찾는 과정에서 의존한 건 오로지 제 두 눈이었는데, 모종에 사전 조사를 통해 형성된 심상을 가진 채로, 어떤 인물을 탐색하거나 가려내기 위한 비교 작업을 하다보면 그 사전 정보에 '끼워 맞추려는' 경향이 생긴다는 것을 알게 되었습니다. 예를 들면 어떤 어질게 생긴 분이 용의선상(?)에 오르고 몇 가지 단서가 맞는다 싶으면 이 분이 어머니였으면 좋겠다는 감정이 일게 마련이고, 약간의 편향이 생김을 경험했기 때문이었지요. 마찬가지로, 그 동생 역시 저에 대해 사전에 알고 있는 것이 있기 때문에 그런 말을 한 것이라고 생각합니다. 그 뿐 만 아니라, 학위과정의 많은 동료들이 저 보다 저 자신에 대해 더 많이 알고 있었음을 뒤 늦게 알게 되었더랬죠. 이건 석사과정에만 그치지 않습니다. 이후의 박사과정은 말할 것도 없고, 그 전의 대학시절, 또 그 전 군복무시절에 만난 사람들까지도.
¶5 아마도, 아마도 마지막 퍼즐조각이 맞춰진 듯 한데, 이제는 뭔가를 단정하는 것이 매우 조심스럽습니다. 사람은 본능상 '설명'이 되어 있는 상태에 머물길 좋아하고 불확실성이 제거된 쪽으로 마음먹도록 길들여져 있기 때문이겠죠. 혹시 추측이 맞다면, 많은 것이 하나로 이어지는 것 같습니다. 저는 지금의 숙소에 들어오기 전 게스트하우스라는 형태의 숙박시설에 약 두 달정도 머물렀습니다. 그 때 그 시설의 컴퓨터를 이용해 위에서 언급했던 페이스북 계정의 주인공과 동일 인물 또는 그 분과 긴밀한 관계자로 추정되는, 다른 이름을 쓰는 분의 페이스북 프로필 사진을 띄워 놓고 작업을 했던 적이 있습니다. 그 모습을 뒤에서 투숙객 중 한 분이 봤고, 나중에 그 분을 복도 계단을 내려가며 유리문 하나를 사이에 두고 지나친 적이 있었는데, 그 때 그 분이 옆의 사람에게 말하는 것을 들었습니다. "[저 사람]엄마 찾으러 왔다". 이후 게스트하우스에 그저 우연히 들른 투숙객인 양 묵게 된 많은 사람들과 조우(?)하게 되었는데 나중에 마찬가지의 생김새 분석과 대화내용의 분석을 통해 제가 친모를 찾고 있는 것과 무관하지 않았던 사람임을 알게 되었지요. 어제의 우연에서 촉발된 사고의 나아감은 이 모든 것을 사후적으로 이어주는 것 같습니다.
¶6 사람은 최근까지 이어오던 생각, 어떤 분석의 대상, 그리고 그 분석의 틀에서 현재 새로 맞이하는 현상을 바라보는 것 또한 영향을 받기 마련입니다. 저 같은 경우는 자연과학적인 것들, 특히 물리학에 관한 것이 지금의 여러 가지 바라봄에 영향을 주고 있습니다. 그래서 현대 물리학에 관한 하나의 비유를 들고 싶습니다. 정육점이 하나 있다고 하죠. 가게 주인은 고기에 대한 상식이 풍부합니다. 그러나 그는 고기의 무게를 정확히 알 수 없습니다. 언제나 디지털 저울에 달아야만 고객에게 정확한 무게의 고기를 그 무게에 비례한 가격에 팔 수 있죠. 저울에는 무게를 재는데 필요한 하드웨어와 소프트웨어가 같이 들어가 있습니다. 그 소프트웨어엔 계산에 필요한 어떤 공식과 그 안의 변수들을 이어서 정확한 계산을 가능케 하는 상수가 있다고 하죠. 가게 주인은 고객 사이에선 '고기 박사'로 통하는 '전문가'이지만 정작 저울 안의 공식과 상수가 무엇인지 모릅니다. 어떤 정육점의 가게 주인은 호기심이 굉장해 공식과 상수를 알고 있는 경우도 있다고 합시다. 그런데 그 가게 주인조차, 그 공식의 논리적인 연결을 이해하는 것일 뿐, 그 안의 상수가 어디서, 어떻게 나온 것인지 모릅니다. 이 주인은 앞의 '고기 박사'보다 더 많이 아는 사람이므로 '고기 교수'라고 합시다. 이제 물음을 던져 봅시다. 고객인 우리는 고기 무게에 관하여 주인을 신뢰할 수 있을까요? 답은 아니오 입니다. 그들이 거짓말 쟁이일 수도 있지만 세상에서 가장 정직한 사람이라고 해도 이 질문에 대한 답은 '예'가 될 수 없습니다. 그 상수가 '왜' 하필 그렇게 생겨 먹은지 모른다면 저울이 지시하는 고기의 무게 값이 정확한 건지 말할 수 없기 때문입니다. 그럼 누가 알고 있을까요? 저는 알 수 없습니다. 그러나 저는 확실히 한 가지는 알 수 있습니다. 고기 박사와 고기 교수보다 저울을 만든 사람이 더 잘 알고 있을 것이란 것을. 그러나 사람들은 실제로 고기를 다루고, 썰어서 팔고, 값을 정하고, 어느 부위가 맛있다는 재미난 정보를 주는 고기 박사와 교수만을 바라봅니다. 그리고 그들을 믿습니다.
¶7 윗 단락에서 무슨 이야기를 한 건지 다 아실겁니다. 지금의 물리학이 그렇습니다. 가게 주인과 고객, 저울이 각각 누구와 무엇에 빗댄 것인지도 아실겁니다. 이 비유를 든 것은 이러한 현상이 비단 물리학에만 머물지 않는다는 것을 말하기 위함입니다. 고기의 본질을 자연의 본질에 빗댄 것이기에, 다른 모든 사회현상의 본질에 관해서도 사정은 마찬가지입니다. 제가 친모를 찾는 과정에서 절절히 느낀 건, 제가 친모와 떨어지게 되었고, 그것이 비밀에 부쳐져야 했고, 그 진실에 접근하는 것 자체가 불이익으로 돌아오는 현실이 위에서 언급한 비유가 등장하게 된 배경과 무관하지 않다는 것입니다. 세상은 너무 많은 거짓으로 둘러쌓여 있습니다. 그것은 거짓이 또 다른 거짓을 낳았기 때문에 그렇습니다. 그러나 대부분의 사람들은 불행히도, 자신이 거짓 속에 있는 줄 조차 모르는 것 같습니다. 저는 지금까지 써온 글들에게서 무의식적으로든 의식적으로든 '노예'라는 말을 참 많이 썼던 것 같은데, 그것은 인식조차 불가능한 거짓의 층위들 때문에 그러한 것이었습니다. 어차피 자신의 의지대로 삶을 살 수 없는 상태를 가리키는 의미에서의 '노예 상태'야 오래 전 부터 있어왔던 것이었고, 불평등은 이미 태어날 때부터 존재하는 것이니까 이런 형식적인 의미에서의 노예는 언급할 이유가 없는 것이었지요. 사람이 제가 의미 하는 '노예 상태'에 놓이게 되는 것은 바로 사람 그 자신들 때문인 것 같습니다. 교만하고 탐욕스럽기 때문이라고 생각합니다. 자신이 거짓 속에 있는 줄도 모르고 거짓을 행합니다. 죄를 짓는 줄도 모른 채 죄를 짓습니다. 상대가 내가 행하는 거짓을 모를 것이란 교만 때문이고, 내가 행하는 거짓의 결과가 상대에게 피해를 주는 건 아닐거란 무지 때문이며, 그 결과가 내게 큰 이익을 주기에 추구할 수 밖에 없는 탐욕 때문입니다. 더 큰 문제는, 이 세계를 유지하려면 인간들은 이러한 어이 없는 짓을 계속해야 된다는 것이겠지요.
¶8 오늘은 한국에서, 제가 보기엔 전혀 그렇지 않은데 누군가의 눈에는 매우 중요한 선거가 있는 날입니다. 가장 큰 두 도시의 장을 뽑아서 그렇고, 그게 곧 이어질 대통령 선거의 결과로 이어진다고 여겨 그렇게 생각하나 봅니다. 저는 이 글을 마무리하고 투표하는 대신 영화나 보러 갈까 생각 중입니다. 혹시 이것도 누군가의 바람대로 되는 것일까요?^^ 저는 가난해서 한국의 사회복지제도 중 하나에 기대고 있는데, 거기서 "문화생활"을 하라고 보조해 주는 일정 금액이 있습니다. 영화나 도서 구입 등 사용처가 한정돼 있어서 먹을 거 대신 이런 곳에 쓸 수 밖에 없거든요. 대신 영화관 안에서 맛있는 팝콘을 사 먹으면 됩니다^^ 특히 오늘은 이 복지제도의 수급자들이 영화를 볼 경우 반 값으로 볼 수 있는 행사를 하는 날이라서요. 날도 참 따뜻하고 좋습니다. 제가 추위를 싫어하고 더위는 그러저럭 잘 견디는 편인데, 이것도 친부모님의 영향이 크겠지요. 제가 친모를 찾았던 중요한 이유 중 하나는, 생존여부를 알아 보기 위한 것이기도 했습니다. 누군가 제게 기를 쓰고 감추는 일이 있었고, 행여나 그것이 제 친모의 안부와도 관련된 게 아닌가 싶은 생각에서였지요. 제게 숨기는 일이라면 제게 안 좋은 일이었을테니까 말입니다. 만약 저 윗 단락에서의 추측이 맞는다면 적어도 친모께서 잘 살아 계신 것이니 걱정은 덜었습니다. 물론 이 또한 단정짓기 힘든 일이겠습니만요. 사진 속의 그 분은 참 아름다우시더군요. 참 고무적인 일입니다만, 이 역시 제가 순진하게 마음에 품고 행복을 자아낼 수 있는 일인지 모르겠습니다. 지금까지 그러했듯, 앞으로도 그저 바보처럼 살려고요. 바보에게 위로가 되는 라틴어 경구가 하나 있습니다. 도서관에서 컴퓨터를 쓸 수 있는 시간이 다 되어 가네요. 그 경구로 마무리하겠습니다. Fortuna favet fatuis.
*この文はNAVERのオンライン翻訳サービス「パパゴ」を利用して下書き翻訳後、整え作成したものです。