【筒井順慶にまつわる2つのことわざ】
▣「元の木阿弥」
筒井順慶は大和国の大名、筒井順昭の子として生まれ、僧侶となるものの、父の死で家督を継ぐことになります。父の順昭は死の床にあって、幼い順慶を呼び、家臣を集め忠誠を誓わせました。その際、敵を欺くために、奈良から声や姿が自分によく似た"木阿弥"という盲目の僧を呼び、影武者に立てて死を隠すことを命じます。
木阿弥という僧は、身代わりの間は贅沢な暮らしができましたが、順慶のもとで家臣団が整備され始めると、木阿弥は用済みとなり、奈良に返されてしまいます。城主からただの僧に戻ったことから「元の木阿弥」という言葉が生まれました。
▣「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」
天正10(1582)年、織田信長が謀反に倒れた本能寺の変の直後に、中国大返しで京に戻った羽柴秀吉が、明智光秀と激突したのが山崎の合戦です。明智と羽柴の両方から加勢を頼まれた筒井順慶が、一度明智方につくことに決め、大和から洞ヶ峠まで兵を進めたものの、その洞ヶ峠で日和見の態度を取ったことから、日和見のことをいつからか「洞ヶ峠」というようになったとされます。
しかし、順慶が日和見の態度を取ったという事実はありません。順慶は大和から兵を動かさなかったからです。実際に洞ヶ峠に行ったのは明智光秀のほうで、筒井順慶に再三再四、光秀側についてくれるよう頼み、むしろ光秀が洞ヶ峠で今か今かと順慶が来るのを待っていたというのが真相のようです。
(以上、記事より引用)
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信長に気を遣い、秀吉にこき使われて病がちだったようで、秀吉が家康と戦った 「小牧・長久手の戦い」の後、36歳で亡くなった😔
ちなみに筒井順慶の重臣であった島左近は、順慶の死後、石田三成の重臣となり、「関ヶ原の合戦」で三成と運命をともにした🤔
「三成に 過ぎたるものが二つあり
島の左近と 佐和山の城」
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