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鄧子恢(邓子恢 Deng Zihui 1896-1972) 維基百科ほか

農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972) 成城大学経済研究218号 Dec.2017 451-491 

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邓子恢(トン・ツーホイ) 中華人民共和国国務院副総理 任期1954年9月28日―1965年1月4日 総理 周恩来: 中国中央農村工作部部長 任期:1952年11月12日―1962年1月19日 中央委員会主席 毛沢東
個人資料 1896年8月17日生れ 大清福建省龙岩县 1972年12月10日(76歳)逝去。国籍 中華人民共和国。政党 中国共産党。親族 邓淮生(トン・ホアイシェン)(息子)、邓小燕(トン・シアオヤン)(娘) 妻 阵兰(チェン・ラン) 最終学歴(母校):1917-1918年 日本東亜補習学校 宗教信仰:社会主義共産主義 軍歴 忠誠(效忠):中国共産党 服役:中国工農赤軍(红军)、国民革命軍陸軍新編第四軍、中国人民解放軍 服役期間:1928年―1952年 参戦:第一次国共内戦、抗日戦争、第二次国共内戦
邓子恢(トン・ツーホイ) 1896年8月17日―1972年12月10日 名は紹箕(チャオチー) 字は子恢 子恢が通り名になっている(以字行) 福建龙岩东肖区厝村人。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。農業政策の専門家。邓子恢は若くして日本に留学。その後闽西(福建西部)に革命活動を組織。红十二军政治委員、中華ソビエト(苏维埃 スウェイアイ)共和国中央執行委員会委員兼財政部部長。赤軍(红军)が長征に向かってからは、命令に従いソビエト区を堅持しゲリラ戦を行う(游击战争)。抗戦期間においては、新四軍政治部副主任、江北式部政治部主任。皖南事変後、新四軍政治部主任、第4師政治委員。第二次国共内戦時期、華中軍区政治委員、中共中央華中局第三書記兼第四野戦軍第二政治委員。中華人民共和国成立後、中南軍政委員会代主席、中華人民共和国国務院副総理、主管農業。「分田至戸」責任制を提唱、毛沢東の農業合作化(集団化)運動に反対し、批判を受ける。文革期に迫害を受け、病により亡くなる。
初期の革命および赤軍の時期
 貧農の出身で兄弟姉妹は8人。上から2番目である。邓子恢は幼年時桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳で母を亡くした。17歳で龙岩(ロンヤン)中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。1916年末に優秀な成績で卒業。1917年龙岩县の公費日本留学資格を得て、3月に日本にわたり東亜補習学校で1年余り学んだ。(しかし)肺病のため帰国をよぎなくされた。1918年5月龙岩に戻り、母校の桐冈小学で教師となった。(けれども)農村の給与水準があまりに低くて、一家の生活を維持できなかったので1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。1919年五四新文化運動の影響を受けた。1923年邓子恢は崇义から龙岩に(再び)戻り、「岩声」を創刊し、マルクスレーニン主義を伝え、社会の不正(暗)を告発した。1925年中国国民党に入った。1926年、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で中国共産党に入った。間もなく、陈赞雍と邓子恢は党員を10数名まで発展させて中共崇义县支部を成立させた。1927年第一次国共合作が崩壊したあと、邓子恢は国民党に追われるようになった。

 1928年4月邓子恢は上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。1928年7月 永定渓南に正式に中西闽西特委が成立、邓子恢は特別委員会宣伝部長となった。同時に闽西暴動委員会が成立し、邓子恢は副総指揮に任じられた。この時闽西各県の武装合編は紅七軍第十九団を編成し、3つの团を従えた。邓子恢は五十七団の党代表を兼任した。1929年3月、中共闽西特別委員会書記であったとき、毛沢東と朱徳は紅四軍を率いて福建に入っていた。邓子恢は朱徳と毛沢東の紅軍がすでに西に進んで赣南に入っていることをしり、闽西地区の敵情変化情況を書面で報告し、紅四軍の前委(前卫の誤植か?)に深夜人を派遣して、紅四軍に再度闽西に入ることを求めた。毛沢東と朱徳は当時の敵情をもとに、紅軍を闽に入れてソビエト区を作ることを決定。同年5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に侵入したのと力を合わせて、国民革命軍福建省防軍第一混成旅陳国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夜遅く、邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて面会した。6月4日、龙岩县革命委員会が成立し、邓子恢が主席に推された。2ケ月経たないうちに、龙岩  永定  上抗の3県の大部分の土地が完全に分配された。
 1930年3月18日 闽西第一次工農代表大会が邓子恢の主催のもと開催された。選挙により闽西ソビエト政府が成立し、邓子恢が主席に選ばれた。同年5月 闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊あわせて3000人あまりは、正式に中国工農軍第12軍を編成。邓子恢はその政治委員を兼任した。闽西ソビエト区は縦横300里、人口100万近くに発展し、党組織は8つの县委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員数までに発展した。1930年9月 邓子恢は福建省委巡視員とされて、莆田 福安 谭州等で土地改革と遊撃隊の建設を指導した。1931年11月 中華ソビエト共和国政権成立後 邓子恢は臨時中央政府執行委員となった。1931年12月 中共厦門中心市巡視委員となり、漳浦(チャンプー) 龙溪 (ロンシー)   云霄(ユンシアオ) 平和などの県で土地革命と遊撃隊を指導して、紅軍独立第三団の発展に努めた。また闽南遊撃根拠地を建設した。

 1932年7月初 邓子恢は紅軍東路軍に従い龙岩に戻った。間もなく瑞金にゆき、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職についた。紅軍が第四次第五次の包囲(围剿)のなか補給の責任者となった。紅軍主力の戦略が変化するなか留守役の中共中央分局委員を務め、邓子恢は闽西に戻ってゲリラ(遊撃)戦争を指導し、张鼎丞(チャン・ディンチェン)谭震林(タン・ツェンリン)等とともに継続して遊撃戦争を指揮した。
抗日戦争時期
 1937年赣闽(ガンミン)での中共遊撃部隊と国軍との談判をすすめて、成功した(和平交渉を成立させた)。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。
 1941年に皖南事变(1941年1月4日から14日 移動中の新四軍が国民党軍に囲まれて2000人以上が虐殺された事件。新四軍は共産党の中国南部の拠点を維持拡大のための軍隊。新四軍は国民党軍と軍事衝突をくりかえした末に1941年10月黄橋戦役で多大な損害を国民革命軍に与えた。そこで蒋介石は1940年内に新四軍の北上の完了を要求した。そして毛沢東もそれに同意した。ところが新四軍の移動開始は遅れて、期限に反して1月に入って戦闘態勢で移動を開始。包囲攻撃を受けた。新四軍軍部が毛沢東の指示に反し移動を遅らせた可能性は高い。新四軍は国民軍の攻撃停止の依頼を毛沢東に求めるが、毛沢東は動かず、新四軍の被害が拡大する経緯をたどった。この事件に対して、国民党を支援していた米英は国共合作を支持して国民党を非難、またこの事変にかかわらず国共合作は維持された。背景には国共合作後も各地のソビエト区を拡大しようとする八路軍・新四軍と国民革命軍との間で戦闘が続いていたことがある。1940年10月4日から7日に生じた黄橋戦役では、新四軍が国民革命軍に対して5000人規模の死傷を与えた。もともと黄橋は国民軍の拠点。これを新四軍が7月に奪ったため、10月に国民軍が取り戻そうとしたができなかったというのが黄橋戦役。この「摩擦」を受けて蒋介石は10月19日に中共中央、八路軍、新四軍に対して年内の北上を要求した。これに対して11月19日に中共中央は北上を返答した。しかし北上が実行されないため12月3日に蒋介石は再度年内北上を求めている。新四軍の北上の判断は明らかに遅れ、1月4日になりようやく戦闘態勢のまま北上を開始、国民軍と衝突した)が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。当時の淮南(フアイナン)の情勢はとても緊張しており、邓子恢は軍部の職にすぐに赴いておらず、新四軍第二師団の改編を指導していた。1941年5月華中局が成立し、劉少奇が書記となり、陳毅、張雲逸、邓子恢などが委員になった。間もなく邓子恢は華中局代表の名目(名義)で新四軍軍部巡視団を率いて、皖东北地区彭雪枫(ポンシュエフェン)部に検査と支援工作に赴き、部隊の気持ち(情绪)を落ち着かせた。8月11日 邓子恢は新四軍第四師団の政治委員を兼任した。8月23日華中局は淮北軍政党委員会の成立を決定、邓子恢をその書記とした。

1942年11月25日 淮北地区は党政軍の一元化指導を実現(実行)し、淮北軍政党委員会を廃止(撤销)、邓子恢は淮北区党委員会書記に任命され、同時に淮北軍区政治委員を兼任した。1944年7月25日、豫湘桂会战(1944年4月から12月にかけての日本軍と国民党軍の大規模な会戦を指す。太平洋戦争の末期であるが、日本軍は勝利している その最中に新四軍は根拠地造りに励んでいたということであろう)において、河南を失う(河南沦陷)背景のもと、新四軍四師団は豫皖ソビエト辺区の回復のため西に向かい、河南抗戦局面を発展させた。彭雪枫は四師団の主力五個師団を率いて西に進む任務を行った。邓子恢らは2つの師団と地方武装を率いて、淮北路东根拠地を堅持し、主力が西に進むことを支援した。1945年に中国共産党第七届中央委員に当選した。
第二次国共内戦時期
 中日戦争終結後、中共部隊は戦略調整され、新四軍の主力は山東に入った。邓子恢は中央の電令に従い、1945年10月淮北路西前线から淮阴に移動し、併せて11月に華中分局成立を正式に宣言した。邓子恢を書記、谭震林を副書記とした。華中に残された新四軍は華中軍区に統合(合拼)され,张鼎丞は司令員、邓子恢は政治委員を兼任した。1946年4月、其与曾山から延安に向かい毛沢東ほか中共の指導者と会見し、江北を守る新四軍の戦略を議論した。翌月、邓子恢は淮安に戻り、土地改革を組織した。全面内戦爆発後,涟水戦役に参与組織し12月には、宿北戦役を参与組織し、そのあと山東作戦に転入した。
 1946年末 華中分局と山東分局は合併して華東局となった。邓子恢は華中局副書記に任命され、土地改革再調査(复查)工作を担当した。併せて組織建設後の華東野戦軍(すなわちのちの第三野戦軍)の後方支援供給の責を負った。1947年7月下旬 張雲逸らとともに渤海地区に移動し、華東局工作委員会を組成、邓子恢が責任者となった。1948年 華東野戦軍と中原野戦軍(すなわち第二野戦軍)は河南共同(配合)作戦にあり、6月に邓子恢は、中共中央中原局第三書記を担当し、中原軍区の副政治委員を兼任。中原局日常工作を主管(主持)し、併せて淮海戦役の事前事後工作を担当した。
 1949年3月 中原臨時人民政府が開設成立し、邓子恢が主席を担当した。1949年6月初めに新たに組織された華中局の第三書記兼第四野戦軍と華中軍区との政治委員を兼任し土地改革と経済建設を組織した。6月中旬、邓子恢は新たに組織された華中局の機関を開封から漢口に移した。9月北京で招集された中国人民政治協商会議において、中央人民政府委員に当選し、10月にはまた中央人民政府人民革命軍事委員会委員に任命された。
中華人民共和国初期
 1949年12月廣西開放後にあたり、華中局と華中軍区は中南局と中南軍区に改称された。林彪は中南局第一職兼中南軍区司令員、罗荣桓(ルオ・ロンホアン)は第二書記兼軍区第一政治委員、邓子恢は第三書記兼軍区第二政治委員で、中南大区の全面工作を担当した。1950年2月に中南軍政委員会副主席、主席代理兼中南財経委員会主任となり、全区の財経工作を担当し、中南地区の土地改革を組織した。1953年1月5日、ただちに第一次5年計画を実施するために、中央は地方権利の削減が必要となり、高岗,饶潄石(ラオ・シュース)、邓子恢,邓小平,习仲勋(シー・チョンシュン)ら地方軍政第一要員(5つの地方局書記)は北京に集められた。歴史に名高い「五馬進京」とはこのこと。その中で邓子恢はそのなかで北京に用意された(筹建)中共中央農村工作部と出任部長となった。合わせて全国防汛総指揮を任された、1954年9月邓子恢は中華人民共和国国務院副総理となり、農業、林業、水利、気象、供給と信用合作などの部門を主管した。
   (なお 1954年に高岗 饶潄石事件が起きている。)

1955年4月毛沢東はもともとの65万の農村合作社の基礎上で、倍増して130万にすると。邓子恢は原計画は動かさないと主張した。すなわち65万社の基礎上で半分増やして100万まで発展させると。このため毛沢東は数回にわたって邓子恢とこの問題について協議した。邓子恢は意見を変えず、毛沢東は中央で会議を開き解決することを提案した。その後開かれた、省、市、自治区の党委員会書記会議において、毛沢東は「農業合作化問題について」の報告を行い、小脚女人は東に揺れ西に揺れて道を歩くように「右傾」の誤りを犯している、と批判した。1955年10月中共中央が招集した拡大七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎ、不可能なほど急ぐことを求めている」との意見は、「右傾機会主義」と断定されて、批判を受けた。1956年上半年に全国で農業合作化が実現した。1956年4月邓子恢jは全国農村工作部長会議を主催して次の提案をした。「新たな生産関係を安定させ、合作社を強固にする。合作社の要諦(关键)を強固にするには、農業生産を高め,90%以上の社員の収入増加を保証することである。政策の不十分なところを補い(进行政策补课),良い合作社幹部を選ぶこと。1956年8月には再び全国農村第二次農村工作部長会議を主催し、中央に代わって「農業生産の合作を強化するための指導と組織建設に関する指示」を起草した。
 1961年農村に下っての調査のあと、邓子恢はなお保留土地責任制を主張し、包産到戸を進め、毛沢東の行き過ぎた合作化政策に抵抗した。1962年9月中共八届十中全会で、邓子恢が提出した「包产到户」を指示する主張は、「修正主義綱領」だとされて激しい(严厉)批判を受け、邓子恢が指導する中共中央農村工作部は職務を取り消された。1965年1月に召集された第三届全国人民代表大会第一次会議は、国務院副総理の職務を免じ、改めて第四届全国政協副主席、計画委員会財経工作担当に任じた。
 文化大革命で邓子恢は迫害にあった。1969年10月廣西に追放(疏散)された。1970年6月北京で入院治療となった。1972年12月10日北京医院で世を去った。12月14日中共中央は追悼会を開いた。紀登奎が主催し、叶剑英が弔辞を述べた。
 1981年3月9日 中共中央の办公厅は邓子恢同志の名誉回復の通知を出し、その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」同年6月27日の中共十一届六中全会において可決された「建国以来党の若干の歴史問題の決議」の中で中国農業に重大な意義のあるその農業責任制の観点は称賛されている。(以下翻訳作業中)

 百度百科
 邓子恢(プロレタリア階級革命家 政治家) 邓子恢は名を紹箕とも言う。福建龙岩新罗の人。偉大な共産主義戦士であり、傑出したプロレタリア階級革命家、政治家であり、農村労働者の卓越した指導者であり、闽西革命根拠地そしてソビエト区の主要な創建者でありかつ卓越した指導者の一人。抗日戦争と解放戦争の経験者。解放後、中共中央農村工作部部長、国務院副総理、全国政協副主席などを務める。邓子恢同志は我が国社会主義農業の発展経路の探索に一生をささげた。党内の農業、農業工作の専門家とされる。
中国語名:邓子恢。別名:邓紹箕。国籍:中国。民族:漢。出生地:福建龙岩。出生:1896年(丙申)8月16日。逝世:1972年(壬子)12月10日。職業:政治家、軍事家。
若い時の履歴
 1896年8月17日邓子恢は福建省龙岩(ロンヤン)县(現在の新罗区)东肖邓曆村に生まれた。兄弟姉妹は8人で、上から2番目だった。邓子恢は幼年時 桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳のとき母が病気で亡くなった。17歳で龙岩中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。辛亥革命の影響を受け、孙中山の救国思想を受け入れた。1915年秋に中華革命党(中国国民党の前身)に入党し、救国救民の真理を探究し始めた。1916年末優秀な成績で卒業した。1917年3月 公費日本留学の試験に合格し、東京の東亜補習学校に1年余り留学したが、貧しさと病のため帰国した。
 1918年5月龙岩に戻る。母校の桐冈小学の教師となる。乡村の給与があまりに低く、一家の生活を支えることができなかったので、1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。五四運動のあと、次第にマルクス主義を受け入れる。1921年春 進歩青年と龙岩白土桐冈書院を組織。奇山書社で月刊「岩声」を創刊、マルクス主義革命理論の普及に努める。
 1926年北伐軍は韵南に直進し、崇义县を解放した。杰坝圩では国民党(左派)区党部ができて、邓子恢は常務委員になった。同年12月、大革命の嵐のなか、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で崇义县は中国共産党に入った。間もなく陈赞雍と邓子恢は党員を10数名に拡大し中共崇义支部を成立させた。1927年第一次国共合作が壊れると、邓子恢は国民党から追われる(被通缉)ようになった。
土地革命戦争時期
 1927年冬、中共龙岩县委宣伝部長になる。1928年3月4日、党の八七会議精神と福建臨時省委員会の決議により、龙岩后田暴動を参加指導し、闽西第一派(支)農民遊撃隊を創設し、闽西ソビエト地区の闘争を開始する。
 1928年4月、中共上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。蛟洋一帯に深く入り、現地の指導者を助けて、蛟洋農民暴動を引き起こした。6月永定暴動のあと,暴動の隊伍を町からは撤収させて、農村で土地革命を展開することを提案した。
 1929年3月に中共闽西特別委員会書記に任命され、地方武装を指導し、毛沢東と協力して(配合)、朱徳が率いる紅四軍の入闽を戦った(作战)。邓子恢は朱(徳)に毛紅軍がすでに西に進み×× すでに闽西地区の敵情は変化し文書報告は紅四軍の毛沢東と朱徳のところに送られ、紅四軍に再度入闽を求めていた。毛沢東と朱徳は当時の敵情により紅軍を入闽させスビエト区を創立する(开辟)決定をしている。5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に入るのを助け、国民革命軍福建省防衛軍混成陈国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夕方(傍晚)邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて会った。同年6月紅四軍が龙岩城を初めて攻めたあと(攻打)、龙岩县の革命委員会主席に任命された。2ケ月経たないうちに、龙岩,永定,上杭3县の大部分の土地分配は完成した。7月、毛沢東の指導の下に、(邓子恢は)「闽西中共第一次代表大会を開催し、闽西土地革命と工農武装割拠の総路線を決定(确定)し、中共闽西特別委員会書記に当選した。
 1930年3月18日、(邓子恢は)闽西第一次工農兵代表大会を開催し、闽西ソビエト政府を設立させ、主席に当選し、闽西人民を指導し、闽西革命根拠地を力強く(巩固)発展させた。その間、董成荣そのほかの戦友とともに革命を行った。同年5月、闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊合わせて3000人あまりは正式に中国工農軍第12軍を編成し、邓子恢はその政治委員を兼任することになった。闽西ソビエト区は縦横300里(150km),人口100万近くに発展。党組織は8つの県委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員を抱えるまでに発展した。最盛期には6つの県、60余りの区、597の郷(乡)ノソビエト政府を建設した。
 1930年7月8日 李立三の「左」傾盲動主義の誤りに抵抗したため、特別委員会書記、ソビエト政府主席などの職務を免じられて、闽西の職務を外されたが、中共福建省委員会農村巡視員の名目で、闽中,闽东,闽南等に出向いて白区(国民党地区)工作を発展させた。1931年11月、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長に選ばれ、代理土地部長も兼任した。1931年12月 中共厦門中心市委員会巡視員となり、漳浦 龙溪 云霄 平和などの県の土地革命と遊撃隊を指導し、紅軍独立第三団に発展させた。また闽南遊撃根拠地を創建した。
 1932年7月初めに邓子恢は紅軍東路軍とともに龙岩に戻ってきた。ほどなく瑞金に行き、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職に就任する。紅軍に対して第四第五の包囲(围剿)のなか補給(供給)の責任を負った(担保)。1933年には国民経済部長を兼任した。自ら一連の中央ソビエト区の財政税収の政策と法令を制定公布し、中央ソビエト区の財政の統一について、土地革命の勝利成果を強固にして重要な貢献をした。かつて左傾教条主義者の誤った批判を受けて中央財政部副部長に降格されたが、徴発局の仕事は残された。中央主力の紅軍が長征に向かったあと、邓子恢は中央ソビエト区に残り遊撃戦争を堅持した。また中共中央分局委員を任じた。
1935年4月 闽西に戻り闽西南軍政委員会を組織した。前後して宣伝部長、財政兼民運部長、副主席兼財政部長に任命された。張鼎丞 谭震林 方方とともに、群衆を指導して遊撃戦争を発展させ、革命力量を保存発展させた。
抗日戦争時期
抗日戦争が爆発する前後、中共中央の方針に従い、苦しく複雑な闘争を経て、闽西の国民党当局と和談協議を達成し、闽西南第二次国共合作を実現した。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。

1941年に皖南事变が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。(以下中略)

中華人民共和国成立後

1949年12月 中南軍政委員会(のちの中南行政委員会)第一副主席となり、中南局工作を担当する。中南地区人民が国民経済の回復をna'do'to'to'mo'ni'to'to'mo'ni優れて完成させることを指導し、人民政権の××を建立し強固にした。かれのこの一時期の光輝ある業績、とくに農村土地改革と群衆工作訪問の独創性は、党中央から充分肯定された。

1952年10月中共農村工作部部長に任命された。1954年9月国務院総理に任命され、農業、林業、水利、気象、商業(供销)と信用合作などの部門を主管した。50年代の農業合作運動においては、現実に立脚して(实事求是)「小農経済の現状から出発する」、すなわち中国の農村の貧しく遅れた現状から出発し、党中央が確定した、自由意志により相互の利益による、ゆっくり前進発展する方針を一貫して実行するとした。その後の人民公社化運動での左偏向に際しては、一連の経営体制調整の意見を提出、包産到戸を含む様々な生産責任制を主張した。

1955年4月毛沢東はもとの農村合作社65万の基礎の上に倍増させ130万とすることを主張した。邓子恢はもとの計画を動かさないこと、すなわち現在の65万の基礎を半倍して100万に発展させることを主張した。そこで毛沢東は邓子恢と数回にわたり話し合ったが、邓子恢は意見を変えなかった。毛沢東は中央が会議を招集して解決することを提案した。その後開かれた省、市、自治区の党委員会書記会議で毛沢東は「農業合作化問題について」報告を行い、小脚女人のようなものが東に揺れ西に揺れて道を歩き、右傾の誤りを犯したと指摘した。1955年10月、中共が招集した拡大された七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎできないほど過度に急ぐことを求めている」との意見は、右傾機会主義だとされて批判を受けた。

1956年4月2日 邓子恢は全国農村工作部長会議の講演で以下のように述べた現在の合作社の基本要諦を整頓強化するべきで、なかでも大事なのは以下の3点である。第一は生産を改善(搞好),増産増収を保証し、社員生活を改善することである。これは合作社の物質基礎を固めるものである。主要には以下の3点「この一条はまだ達成されていなければ、すべてが終わったと同じだ。仕事をしつつ、仕事を勤俭(勤労倹約して)」行なうには、群衆の潜在力量を発揮させ、労働は定額で包工包産でよくさせる必要がある。二、政策上补课を要するときは合作社の幹部の素質を引き上げる。社内民主主義、選挙制度を確立する必要がある。社員と幹部の間、社員同志の間、社員と幹部の間の批判と自己批判(自我批评)制度の確立。

1961年農村に入っての調査のあと、邓子恢は保留土地責任制の主張を堅持し、請負責任制(包产到户)を進め、毛沢東の過度の農業合作化に抵抗するところがあった(有所抵制)。1962年9月,中共八届十全会において、邓子恢が提出した包产到户を支持する主張は「修正主義綱領」とされて、激しい批判を受け、邓子恢指導の中共中央農村工作部は職務を取り消された(撤销了)。

1965年1月全国政協副主席に選ばれ、計画委員会財経工作を担当した。このほか中国共産党第七、八、九届中央委員に選ばれた。文化大革命の間、林彪、江青反革命集団の激しい迫害を受けたが、逆境にあって消沈することなく、困境にあっても思考を進め(思备进) 、常に大局を見て原則を堅持し、彼らとの闘争を進めた。

1972年12月10日 政治上の長期にわたる迫害と不平等な扱い(歧视)のため(由于)、病により北京で世を去った。

1981年3月9日 中共中央办公厅は邓子恢同志の名誉回復(平反)の通知を出した。その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」(以下翻訳中)

動画 農民統帥 

邓子恢(1896-1972) 元中共中央農村工作部部長 国務院副総理 全国政協副主席

1952年8月4日 毛沢東が国家組織(機構)を増やすので地方の各中央局書記は中央に移って仕事をするように文書指示(批示)をだした。 五頭の馬が進むとき一頭が最前列に立つ(五马进京一马当先)と言われるが、邓子恢はその中で政治的スターの一人だった。四億近い農民の利益にかかわる農民工作を行う中央農村工作部部長に毛沢東自身によって指名された。

邓准生「毛主席は父を探し出して「子恢同志には中央で農民の統帥として働いてもらうために移動させた」と話しかけた。「農村工作をうまく進めるために」。父は答えて「とても自分は務まらない、それに統帥は主席です、我々は助手を務めます(以下翻訳作業中)

2016-09-10 upload (2018-06-11更新)

現代中国研究

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