フジイ日記

写真がメインです。鳥・人形・秋葉原などなど

余震も怖いね・・・

2011-03-11 | 日常いろいろ
まだ時々揺れているね@神奈川
一部のマイミクの皆さんの無事がmixiで確認できたのでホっと
しております。(mixiにはこんな使い方もあるのね)
やっと電気が復旧したので今日の恐怖を記録しておこう。

14時50分頃、仕事中に揺れた。
最初は「なんかまた揺れてるね~」と気楽に構えていたのだけど、
揺れがどんどん大きくなる。止まらない。
ガタガタという感じではなくて、ユラリユラリと、長く。振りも大きく。
業務用コピー機やプリンタ、事務机も揺れのせいで位置がズレはじめ
パッと照明が消えたときにはフロアが大勢の悲鳴で包まれた。
さすがに扉を開放したり、机の下に隠れはじめる。
腰を抜かしてしまっている女性もいる。
しばらくしてから総務課から放送がかかり、駐車場に非難。
最上階の事務室だったので、降りるまでに時間がかかり
(しかもギュウギュウ)「階段でまた揺れたら・・・」と思うとゾッとした。
大きなヒビもはいっていたし!
駐車場も1000人以上が一斉に集まったので、かなりの密度。
上空に行き交うヘリ。
・・・それにしても寒い。普段の事務室は暑いので、半袖の人もいる。
3時に帰る人たちが何人か社屋内に入っていったが、またグラリと
来たので再びすぐに駐車場に非難することに。
結局3時40分に事務室に戻り、書類を片付けて帰ることに。
長時間組の人たちはどうしたのかなあ。
遠方から来ている人もいるんだから、暗くなる前に帰宅させるべきだと
思うのだが・・・。

電車は壊滅状態だと思われるので、職場の真下から出ているバスを
待つことにした。運良く10分ほどで来た。
終点鷺沼駅はあたりまえだが人でごった返していた。
後は徒歩で、スーパーとコンビニに寄って帰ろう!と思っていたが・・・
ホームセンターもドラッグストアもスーパーも真っ暗!
「停電のため閉店中」
ヤバイ。とりあえず、途中にあるコンビニに寄ろう。
・・・やはりセブンイレブンも店内が暗い。
ここ一帯が停電しているようだ。
しかし良く見ると、チラリと客が見える。「おお、ツイてる!」開店中のようだ。
早速薄暗い店内に入り食料品を見るが、おにぎりやパン類は全滅。
「そっか、ここが停電ということは、ウチも停電だよな・・・」
みんな考えることは同じである。
真っ暗なために料理などできないのである。
念のため、カロリーメイトやレトルトのお粥などを買い込んだ。
(それくらいしか残っていない)

マンションの総合玄関に入ると、やはり真っ暗。怖い。
廊下で話し込んでいる住人と「地震、凄かったですね~」と挨拶を交わす。
ぽことのっちは大丈夫かと、急いで部屋に入った。

・・・何事も無かったかのように普通にすごしてました。
良かった良かった。
ガラスケースに飾ってあるフィギュアとガンプラ以外は無事でした。
ただ、パソコンのモニターの角度がおかしくなっていた・・・。ナゼ?
寝室はゲームの空き箱と漫画類が少し散乱してましたが、概ね無事。

そうこうしているうちに薄暗くなってきたので、とりあえず懐中電灯と
ろうそく(といってもアロマキャンドル)を集め、明かりを確保。
念のために、水も大きいタブトラックスになみなみ2杯+α

ぽこたんの保温器が使えないので、急遽小さなプラケースに移動&外側
からホッカイロ3個貼り付けた。
のっちはいつもどおり部屋をウロウロしている。

部屋の暗いのはともかく、余震が怖すぎる。
万が一強く揺れた時のために、未使用のスニーカーを部屋で履いている。

午後9時くらいかな?電気が復旧。
青森の姉とも11時過ぎに連絡がやっと取れた。あちらはまだ停電中らしい。
相模原の姉も無事とのこと。一安心。
そのうち柱の男が無事に帰宅。渋谷から歩いて帰ってきた。4時間かけて。
良かったよう~。・゚・(ノД`)・゚・。

とりあえず今夜は眠れないだろうが、厚着+靴下着用で横になる予定。
家族の無事が確認できて夫が帰宅したので、やっと落ち着いてきた。
晩ご飯をしっかり食べて、余震に備えよう。

皆さんも十分お気をつけください。



↑今回の停電中、役に立ったもの。
①懐中電灯(大・小)・・・小さいのはぶら下げて鳥カゴを照らす用に。
②ろうそく(アロマキャンドル)・・・電池の減りが心配だったので。
 複数置くと、それなりに明るいので不安感が少し消えるような。
③電池式小型テレビ(20年前くらいに貰った景品)
 画質が悪すぎるが、それでもTVやPCが見られない昨夜のような
 状況の時には、本当に助かった。情報が入ってくるというのは
 かなり精神的に楽になりますな。
 (携帯のワンセグでもいいんだけど、なるべく携帯のバッテリーは
 使いたくないので・・・)

非常袋には古い水や食料品も入っているので、この機会に検めてみるか。
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無題

2011-03-06 | 日常いろいろ
金曜日、マンションの郵便受を開けると、私宛の茶封筒が入っていた。
差出は某地方都市の生活福祉課。

この場所に関係しているのは あの人しかいない。
これが あまり良くない報せだというのは、なんとなく判る。
エレベーターの中で即開封した。

私の(血縁上の)父にあたる人物が、2月下旬に死亡していたらしい。
身寄りがなかったらしく、市で葬儀を執行。
3月末までに遺骨引き取りがなければ、無縁仏として市内の霊園に埋葬する、と。

遺骨は多分 引き取らない。
あの人とは縁がなかった。血縁上は繋がっているらしいが、私が生まれてから
2度ほどしか見ていない。顔もよく覚えていない。

(血縁上の)姉達はどうするのだろう。姉達にもこの報せは送られているはず。
もしかしたら、姉2人うちのどちらかは引き取るのかもしれない。
唯一母に育てられた次女は、私から見て普通の感性を持っているし・・・

私が母のお腹にいた時に、父は家庭を捨てて蒸発してしまったらしく
別に姉達に対して虐待などをしていたわけではないらしいから、姉達には
父に対しての思慕の気持ちは(少なくとも私よりは)あると思う。
母には怒りの感情しかなかったと思うけど。

まあ、私は姉達とも もう連絡が取れない状況なので知る術はないのだけど。
(引越しや携帯番号を変えた際、私からは全く知らせなかったし、
 姉や1度しか会ったことがない親族からの手紙類は全て処分してしまった)

今回のことで、私の人生における「縁」というものを思い出してみた。
(血縁上の)父とは、私が生まれる前から縁がなかった。
(血縁上の)母とは、生後3ヶ月までは・・・あったっぽい。
たまたま母が乗ったタクシー内での会話がキッカケで、その運転手(後の養父)
のお家に預けられるようになる。(正式な養子の手続きなどはせず)

当時、母は夜の仕事をしていたため、タクシーに乗る機会が多かったのだろう。
もしかしたらお得意様だったのかもしれないが、それにしても赤の他人の
赤ちゃんを預かって育てるって・・・すごいことだと思う。

私が預けられたN家はごく普通の家庭で、優しい父と母、そして
姉2人に囲まれて、私は本当の娘のように可愛がられて育てられた。

生後数ヶ月での事だったので、全く記憶自体は無かったが
時々産みの母親の所へ連れて行かれたり 役所へ行ったり、育てのN家の姉達と
結構歳が離れていたりと、うすうす「自分はこの家の子ではない」ということを
感じていた。何より、産みの母と長女と私は顔が似ている(苦笑)。

私が10歳の時に、産みの母と養母との間で、私を「引き取る」「渡さない」など
一悶着あった模様。最終的には私の意志に委ねられることになったが、
私はそれまで通り、育ての親の許で暮らすことを選択。
それ以後、産みの親と育ての親との関係が悪化。
諸事情で高校のあたりは産みの親の所に隔週のペースで行かなければならな
かったのだが その度に双方の悪口を聞かされるようになり、正直疲れてしまった。
「社会人になったら、もう産みの親と連絡は取らないようにしよう」と思っていたが
実際社会人になって数年後には、こちらからは全く連絡を取らなくなった。
それでも育ての親は気になるのか私が帰省するたびに「連絡は取ってるの?」と
聞いてくる。
「もう連絡取ってないし、知らない。あっちの家の姉たちのことも知らない」と毎回答えているがいい加減ウンザリし、帰省する日数も頻度も減っていった。

今思えば、私の辛抱が足りなかったとは思うが、わたしが産みの親の方とつながりがあるのか気になっていたんだよね・・・育ての親は。
そっけない返事をして悪かったかな・・・

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と、ここまで書いて、昨日(土曜日)は ぼんやりとベッドで過ごしていた。
いつの間にか寝てしまっていたのだが、暗くなってから携帯が鳴って起こされた。

育ての母からであった。
ちょっとしたいつもの雑談の後、血縁上の父が亡くなっていたことを告げた。
すると
「そういえば・・・」
と、急に早口気味に母が話し出した。
「以前街で女性に声をかけられてね、Y子(私の産みの親)の友人だと言っていて
 『あなたは○子(私)を育てているのよね? Y子、亡くなってるの聞いてる?』
 『ええっ、そんないい加減なこと言わないで。○子はそういう事があったら、すぐに
 私に話してくるわよ』
 『う~ん、でも・・・』」
母はその話を信じなかったそう。だから、私にもあえて言わなかったらしい。

昨日連絡のあった(血縁上の)父は、身寄りが無かったために市の方で戸籍や
住民票を追って私に連絡をつけたのだろうが、(血縁上の)母の場合、次女が
一緒に暮らしていたか もしくは面倒を見ていた可能性が高いので、死亡して
いたとしても、次女がいるから市は介入しない。
その次女にも私は新しい電話番号も転居先も伝えていなかったので、私に
母の死を伝えることが出来なかったのだろう。


なんと、今週末に2日連続で(血縁上の)両親の死を知らされるとは。
2人とも60代前半だったろう。今の時代にしては、早い死である。

少し驚いたが、そんなに悲しくはない。
一緒に暮らしたことが無かったからかな。
血のつながりのある人が死んだ、ただそれだけ。
孤独死であったろう父のことは、少し可哀想とは思ったが、そういう生き方を
選んだのは父自身であるし、何より結婚しない・子供作らない・家族関係の
希薄化等が進む現代社会では、孤独死などどいうのは別に珍しくも
嘆かわしくもないと思う。
私も配偶者に先立たれた後は、孤独死だと思うし。
産みの母は、次女がいてくれたから晩年は寂しい思いはしなかったんじゃ
ないかな。(長女も隣の県の祖父母に育てられたから、私ほどではないが
母への愛は薄かったろうし)

私には「母」「姉」と呼べる人たちが存在する。
血のつながりこそ無いが、別にそんなものは必要ないじゃないか。
一緒に暮らしていれば、家族になるのだろう。
昨日の電話の最後でも、母はいつもの口癖を言っていた。
「私もしばらく生きるけど、もし私が死んでも、お前達3人は姉妹なんだから
 何でも隠し事無く話して、力を合わせて生きていくんだよ!」

久しぶりに泣いた。春には帰省しようと思う。
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