源頼信(みなもとのよりのぶ)は平安時代中期(968~1048年)に治部権少輔、左馬権頭、左兵衛尉、上野介、美濃守、甲斐守、河内守、石見・伊勢・常陸の国守、鎮守府将軍などを職業としていた武将。
父・源満仲、母・陸奥守藤原到忠の娘(一説では大納言藤原元方の娘とも)の三男として生まれ、兄は大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治で有名な頼光(よりみつ)、孫に源氏一番の武勇と言われる八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)がいます。
若い頃から兄・頼光とともに「謀の賢りし人物」と言われ、相当きれる人物だったと推測されています。また、武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと「道長四天王」あるいは「四天王」と称されています。
さて、その頼信ですが、1028年に起きた平忠常(たいらのなおただ=平将門(まさかど)の従兄弟の息子)の乱で当初の追討使・平直方と途中交代します。
中央から地方へと派遣されて、何かと腐敗政治を行う国司に反発して大軍を率いて立ち上がった忠常。朝廷との話し合いで、平直方(たいらのなおかた)が強く主張し、自らが追討使に任命されます(忠常と直方は将門の乱でも敵対した間柄で、仲が良くなかったそうで、朝廷は重要視していなかったらしいです)。
元々、忠常は「この反乱は民衆を苦しめる国司に対する反乱。中央に反発する物では無い」ということでしたので。
追討に向かった直方は忠常の激しい抵抗に遭い、長期化してしまい状況が変わらないまま、三年が過ぎます。
そのため朝廷は1030年に直方に代わって追討使に頼信が任命されます(1015年に頼信が忠常との戦に勝っており、その後、主従関係となっていたそうです)。
追討使となった頼信は京都で僧となっていた忠常の息子を連れて関東に向かいます。
すると忠常は頼信が来たと聞くやいなや、自身はすぐに出家し、息子らと出頭します。
一説によると、忠常は重い病気に罹っていたとも言われ、刀の納めどころを模索していたのかも知れないと言う。
頼信は自らが楯となって、忠常らの行く末を見守る事を約束します。
忠常の乱は治まり、忠常は京都に護送されるが、頼信は忠常を気遣って、ゆっくりと京都に向かったと言われています。
しかし、1031年6月6日に京都に向かう途中で忠常は57歳の生涯を閉じます。
やむなく、頼信は忠常の首をはねて京都に持ち帰ります。本当ならば反乱者ですから晒し首になるのですが、頼信の配慮で晒し首は取り止めとなって、首は遺族に返されています。
また、息子らも一切お咎めなしになったそうです。
この乱の平定により、関東の平氏の多くが、頼信の配下に入る事になります。
この件で頼信の名が鳴り渡り、坂東(関東)の武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた人物だと言われています。