「責任分散」、「評価懸念」に続く三部作の最後の話。
ほぼ全員が良いと言っていること(モノ)に対して、他の誰も否定できなくなってしまい、結果的に集団として誤った方向に行動してしまう現象を「多元的無知」と呼ばれます。
例えば、自分でも理解できず、周りにいる誰一人として理解できていないにも関わらず、「理解できていないのは私だけかも知れない。それがばれるのは恥ずかしいから、判ったことにしておこう」と考えて、全員が理解したような態度をとっていることです。
これが大勢、多人数になればなるほど傾向的にあると思えます。
よくあることですが、方針説明などで難しい、耳慣れないような用語が使われたりします。
よく判らない。だけど、誰も何も言いません。
それを聴くのはみっともないので、黙っている。
後で周囲に聞くと「私も知らない」と言います。
また、世の中にはいろいろなブームがあったりします。
一人ひとりが「ちょっと違うんじゃない?」と思っていても、大多数がそのブームに乗っていたりすると、恥ずかしいという雰囲気が自然と出来てしまい、誰も否定できなくなってしまうのです。
その結果、「なんで?」ということが判らないまま、ブームに踊らされてしまっていたりします。
身近な場面でもよくあることです。
会議などでも「これはどう考えても違うのではないか」という場面があっても、それを先導している人の発言力が強ければ強いほど、周囲の人は「多元的無知」に陥っていきます。
よく、肩書きを外して・・・とも言われたりするのですが、結局は上下社会。肩書きが物をいうことになってしまっています。
「肩書きを外して」という人に限って「肩書き」を気にしているのです。
そこで、何かを言えるようなこと。
それ以前に言えるような雰囲気を作り出すことを最初にやらなくてはいけないことでしょう。
結果として、本質的なことが理解できていないので、上っ面だけのことで過ごしてしまう。
結局はお題目だけ挙げて、何も進歩していないことになってしまうのでしょうね。