IT化時代の落とし穴にはまりました。
実は一昨日の夜のこと。
我が家のインターネットがいきなりブラックアウト。外部との情報が遮断されてしまいました。
原因を突き止めるも一切不明。
おそらく無線ルーターの故障だと推測するにも、その夜は電器店も営業が終了しており、どうすることも出来ませんでした。
いきなり、ピンチの神様が舞い降りてきました。
その昔。
プロ野球で試合の後半にチームがピンチを迎えると出番があった火消し役。味方のピンチを見事消し去って行く姿に、手に汗を握るものでした。
現在では、セットアッパーやクローザーと呼ばれたりして、なおかつ、イニングの頭からの登場が多く、ピンチを脱する火消しのイメージが少し薄れてきています。
ピンチに登場ですので、急な登板が出来る、三振が奪える、確実にゴロを打たせられる(ダブルプレーが取れる)・・・ような適性、能力が必要です。
1973年のドラフト1位で千葉・成東高校から中日ドラゴンズに入団した鈴木孝政さん。
2年目の1974年に4勝を挙げ、1975年には快速球を武器に9勝8敗21Sを記録してセーブ王。
1976年には7勝8敗26セーブ、32セーブポイントで2年連続セーブ王になるとともに、この年から創設された最優秀救援投手にも輝きました。さらにこの年は148回1/3を投げ、防御率2.98で最優秀防御率のタイトルをも手にしています。
1977年には18勝9敗9セーブ、23セーブポイントで3年連続セーブ王、2年連続最優秀救援投手に輝きますが、その後は右ヒジを痛め、技巧派へ転身するとともに、1982年からは先発に転向し、9勝を挙げ、リーグ優勝に貢献しました。
1984年には16勝8敗の成績を残して6年ぶりの2桁勝利を記録し、カムバック賞に選ばれましたが、以降、ケガの影響によって1989年に引退しました。
まさしく、当時よく言われていた火消し。
ピンチに登場し、美しく流れるようなフォームで、150km/hを超える浮き上がるような快速球(スピードガンの無かったころのことですが)で、三振でピンチを脱する姿は見ものでした。
鈴木さんのプロ入り2年目の1974年。
この年引退した長嶋茂雄さん(読売ジャイアンツ終身名誉監督)が、速球に恐怖心を覚えると語っています。
スピード時代の幕開けとなったピッチャーでした。
さて、翌日(昨日)の会社帰り。
電器店に寄って、無線LANルーターを購入し、セットアップ。 そして、無線LANは無事繋がりましたが、インターネットに繋がりません。
接続に必要なプロバイダー設定が判りません。申込書も紛失したようです。
問い合わせるにも、問い合わせ先が判りませんし、頼みの綱のネットで検索が出来ません。
非常にピンチ・・・
ここで役立ったのが、久しく使用していなかったタブレット。
ようやく、ピンチを脱出することが出来ました。
ネットに依存しすぎると、いざというピンチには八方塞がりです。
でも、本当に困ったときには神様的存在でもあることを、つくづく実感しました。