―試練は越えられる人にしか与えられないんだ。
神様が君を選んだ。
だから君は絶対に越えられる―
私たちが試練に突き当たって乗り越え、困難を克服すること、問題を解消することを意味するのかもしれません。
でも、そればかりが乗り越えるではありません。
試練、困難、問題と出遭い、今まで気が付かなかったこと、新しく見つけること・・・それが乗り越えることだと考えます。
人生で起こる何事も、無駄なことは何一つもないのです。
人生には良い時もあれば、良くない時もあります。
野球もこれと同じで、良い時もあれば、良くない時もあります。
自分の身に起きたことは、その人がすべて引き受けられると思って、神が与えた人生の試練だということなのです。
今までの自分では受け容れられないことかも知れません。逃げているだけでは何の解決にもなりません。
自分の周りには必ず誰かがいます。
それは、ただ顔と顔を付き合わせるだけの出会いではありません。人と人とは、困難を通してこそ本当に出会うのです(なんだか哲学的な話になってしまいましたが)。
先生たちの話を聞く態度、練習・試合に取り組む姿勢、一生懸命さ、アンサー、全力疾走・・・チームでの決まり事を全員で実施徹底することです。
何度も同じことを書きますが、小さなことを積み重ねて行くこと。そうやって乗り越えて行くのです。
誰か一人、その意識が欠けていたり、守らなかったり・・・
そんなことでチームは勝てるのでしょうか?
そんなことでチームのレベルは上がるのでしょうか?
個のレベルは上がるのでしょうか?
そんなチームは強くなれませんよね。
たとえ、今は良いかも知れませんが、これから先の長い人生で負け試合となってしまうでしょう。
野球をやっている限り、勝ち負けは付いて回ります。
ですから、勝つことにはこだわりがあります。
それは、その勝利を通じて野球の楽しさ、厳しさを知り、野球で出会ったすべての人を大切にし、一人の人間として大きく成長して欲しいと願っています。
人生という長い試合で勝つために、現在の中学校生活を大切にし、そのために野球でも頑張って勝つのです。
君たちを応援している、みんながそう思っています。
きっと野球の神様は見ていると思います。
その野球の神様が、君たちなら引き受けられると思って、与えてくれた試練ですから。
そして、「乗り越える(=逃れる道)」は必ずあります。
正面から試練を受け止めて、乗り越えるために選ばれたのですからね。
元々は新約聖書の中の1節「コリント人への手紙第1 10章13節」に書かれている言葉です。
There hath no temptation taken you but such as is common to man: but God is faithful, who will not suffer you to be tempted above that ye are able; but will with the temptation also make a way to escape, that ye may be able to bear it.
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。