阪神甲子園球場のグラウンドは季節や天候によってグラウンドの硬さが変わります。また、デイゲームとナイター、またはチーム状況によっても硬さが微妙に変わるそうです。
そのグラウンド整備を行っているのが、阪神園芸株式会社です。阪神園芸は甲子園球場の整備をはじめ、その他にもいろいろな施設の整備を請け負う、関西では大手の造園業の会社です。
(雨の甲子園のグラウンド整備は神業ものです)
「雨が降っている日、また試合中に雨が降ってきそうやなという日は、少し硬めにしています。季節によって、試合時間の気温やスタンドの影の具合なんかを計算してグラウンドの状態を仕上げています。今は選手でも気象情報を携帯電話とかで見られますけど、昔はありませんでしたからね。平田勝男さんなんかは、試合前にグラウンドが硬いと、『今日、雨降るの?』って聞いてきましたね。いつもプレーをしている選手には分かるんでしょう」
「あれは2003年ですね。当時の内野守備走塁コーチだった岡田(布彰)さんから、『一塁ランナーがスタートを切る5~6mを硬くしてくれ』と要望がありました。理由は、赤星(憲広)が盗塁をしやすいようにです。それに対して赤星は、『一塁手が守りにくくなる』という理由でこれを断っていたんです。でも、当時のタイガースの一塁手はアリアスで、2005年からシーツと、守備のうまい選手が守っていました。守備力が高い彼らなら対応することができると判断して、実現しました。目に見えて硬いとわかるぐらい、硬かったですよ」
実際にグラウンドでプレーする選手からの意見に耳を傾け、その日の気象条件などを計算しながらグラウンドを作っている責任者が、この道26年の職人、阪神園芸株式会社運動施設部整備第一課課長の金沢健児さんです。
母子二人の家庭で育った金沢さんは、小学生の頃、甲子園球場で事務職員として出勤するお母さんに手を引かれ、毎日のようにタイガースのナイターを見に行っていたそうです。試合前はベンチ裏で藤田平さん(元監督)や掛布雅之さん(現二軍監督)らのスター選手に可愛がられていました。
金沢さんも野球をやっていましたが、中学時代に肩を壊して断念。それでも、野球に関わりたいという気持ちは消えず、高校生の時にもアルバイトで甲子園球場の得点掲示板の作業や整備道具の片付けを手伝っていたそうです。
高校卒業時に阪神園芸の定期採用がなかったため、一般企業に就職し、仕事も忙しくてやる気もやりがいもあったそうです。そんな中、20歳の時にお母さんからグラウンドキーパーに欠員が出たことを聞きました。ですが、それ以上のことはなく「働きたいなら、自分で言いに行きなさい」と話す、お母さんの毅然とした態度に気持ちを決め、転職したそうでが、甲子園のグラウンドキーパーという世界は想像を超える“職人の世界”だったそうです。
「高校の時は、職員の方から『ケンちゃん』って呼ばれていたのが、『金沢』に変わりました。先輩たちは、現場でも事務所でも、誰もひと言もしゃべらない。あのピリピリした緊張感は、いま思い出しても涙が出そうになるくらい辛かった」
手取り足取り、口頭ではほとんど教えてもらえない中で、とにかく見て覚えることだけでした。ようやく仕事が認められるようになった頃、1994年12月に甲子園球場でボールガールをしていた奥さんと結婚し、それまでお母さんと二人で暮らしていた神戸市灘区を離れました。
1995年1月17日の早朝。兵庫県南部を震度7の地震が襲いました。阪神・淡路大震災が起きました。金沢さんがお母さんの住んでいる実家に駆け付けた時には、倒壊した住宅からは火の手が上がっていて、どうすることも出来ず、数日後、焼け跡から母の遺骨を拾い上げたそうです。
二週間ほど休みましたが、仕事をしていた方がいい考え、二月のタイガースの春季キャンプに同行し、三月に開催された選抜大会では球場に泊まり込んで、仕事に没頭しました。
それから21年。グラウンドキーパーは、日々異なるグラウンドの状態を経験や勘で見極めなければならず、10年で一人前とされる職人の世界だそうです。
この仕事を始めた頃に金沢さんが先輩に叱られている場面を見ても、お母さんはただ黙って見ていたそうです。
そして、もうすぐ勤続28年。既にお母さんが働いた年数を超えました。今ではグラウンドキーパーを統括する立場となりました。
「天国の母が、『立派になったね』と思ってくれていたらうれしいかな」
金沢さんは、この世界に導いてくれたお母さんへの感謝の気持ちを胸に、球春到来に向けて、今日もグラウンド整備をしていると思います。