令和6年能登半島地震でお亡くなりになられた方々に、謹んでお悔やみを申し上げます。また、被災された方々にお見舞いを申し上げます。1日も早い安全と日常への復興を心よりお祈りしております。
私が2024年1月1日~3日に投稿したブログ記事。
私が2024年1月1日~3日に投稿したブログ記事。
一日に給付される86,400秒。 / ヤポンスキーこばやし画伯 - 野球小僧 (goo.ne.jp)
今日、誰のために生きる?アフリカの小さな村が教えてくれた幸せがずっと続く30の物語 / ひすいこうたろう x SHOGEN (廣済堂出版) - 野球小僧 (goo.ne.jp)
これらの記事は2023年12月中に書いてあったもので、たまたま「生きること」についてテーマにしていました。
いま、何気なく送っている当りまえのような日常生活。
毎朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、歯を磨いて、着替えて、会社に行って、仕事をして、帰宅して、夜ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、寝て・・・。ある意味、何の変化もない平凡のような日々。
そして、毎日が過ぎ当りまえのように新年を迎え、久しぶりに家族などでゆっくりとおせち料理を食べながら、いつもとあまり変わらないようなお正月の特別番組を観ていたりする当りまえのような時間。
こんなことがどんなに幸せか、ありがたいことなのか。
そうした当りまえと思っているようなことが、一瞬にして当たりまえでなくなってしまうことが起こってしまう。
それは自然災害であったり、事故であったり。世界各地で発生している惨状なども同じことが言えます。
みなさんにとって幸せとはどんな形なのか。それはみなさんそれぞれに幸せの理想像があり、その理想像は一人ひとり異なったものでしょう。
でも、幸せを感じる瞬間は同じだとは思います。
日常的な価値は、どうしてもありがたみを忘れてしまいがち。いろいろな危機に私たちはそれを再確認させてくれているはず。
「幸(しあわ)せ」という言葉は「し合わす」が変化して生まれた言葉だそうです。
「し」は動詞「する」の連用形。つまり、何か2つの動作などが「合う」こと、それが「しあわせ」だというのです。言い換えますと、「めぐり合わせ」に近いそうです。
つまり、自分が置かれている状況に、偶然、別の状況が重なって生じること、それが「しあわせ」だったそうです。ですから昔は、「しあわせ」とはいい意味にも、そうでない意味にも使われたようです。
ですから、たとえいいことでないことにめぐり合ったとしても、それを乗り越えた先の喜びを「幸せ」と表現したのではないでしょうか。
21世紀になって2001年9月の米国同時多発テロ、2011年3月の東日本大震災、2016年5月の熊本地震、2020年1月の新型コロナウイルス感染症、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月のイスラエルのガザ地区侵攻など、想像もしていなかった出来ごとがありました。
もうしばらくこんなことはないだろうと思っていたら、今回の能登半島地震。これまで想像もしてこなかったことが次々と起きています。
それでも、そんな危機の時代でも、必ずなにかしら希望を見いだし、前へと一歩を踏み出す。そんなたくましさをもっているのが人間だと考えます。
被害に遭われた方はそれぞれ異なりますので、安易なことは言えません。
一人ひとりが自分の置かれた立場で考えて行動することだと思います。
そして、私にとって「幸せ」とは何かを改めて考える機会にもなりました。特別でもなく、何の変哲もない日常が一番の幸せだったのだと。
私は万が一、当りまえのことが当たり前のことでなくなってしまっても悔いのないように、毎日、感謝の気持ちを忘れずに自分に出来ることを考えて行きたいと考えています。
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
今日という日がみなさまにとって、よい一日になりますように。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。
今日、誰のために生きる?アフリカの小さな村が教えてくれた幸せがずっと続く30の物語 / ひすいこうたろう x SHOGEN (廣済堂出版) - 野球小僧 (goo.ne.jp)
これらの記事は2023年12月中に書いてあったもので、たまたま「生きること」についてテーマにしていました。
いま、何気なく送っている当りまえのような日常生活。
毎朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、歯を磨いて、着替えて、会社に行って、仕事をして、帰宅して、夜ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、寝て・・・。ある意味、何の変化もない平凡のような日々。
そして、毎日が過ぎ当りまえのように新年を迎え、久しぶりに家族などでゆっくりとおせち料理を食べながら、いつもとあまり変わらないようなお正月の特別番組を観ていたりする当りまえのような時間。
こんなことがどんなに幸せか、ありがたいことなのか。
そうした当りまえと思っているようなことが、一瞬にして当たりまえでなくなってしまうことが起こってしまう。
それは自然災害であったり、事故であったり。世界各地で発生している惨状なども同じことが言えます。
みなさんにとって幸せとはどんな形なのか。それはみなさんそれぞれに幸せの理想像があり、その理想像は一人ひとり異なったものでしょう。
でも、幸せを感じる瞬間は同じだとは思います。
日常的な価値は、どうしてもありがたみを忘れてしまいがち。いろいろな危機に私たちはそれを再確認させてくれているはず。
「幸(しあわ)せ」という言葉は「し合わす」が変化して生まれた言葉だそうです。
「し」は動詞「する」の連用形。つまり、何か2つの動作などが「合う」こと、それが「しあわせ」だというのです。言い換えますと、「めぐり合わせ」に近いそうです。
つまり、自分が置かれている状況に、偶然、別の状況が重なって生じること、それが「しあわせ」だったそうです。ですから昔は、「しあわせ」とはいい意味にも、そうでない意味にも使われたようです。
ですから、たとえいいことでないことにめぐり合ったとしても、それを乗り越えた先の喜びを「幸せ」と表現したのではないでしょうか。
21世紀になって2001年9月の米国同時多発テロ、2011年3月の東日本大震災、2016年5月の熊本地震、2020年1月の新型コロナウイルス感染症、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月のイスラエルのガザ地区侵攻など、想像もしていなかった出来ごとがありました。
もうしばらくこんなことはないだろうと思っていたら、今回の能登半島地震。これまで想像もしてこなかったことが次々と起きています。
それでも、そんな危機の時代でも、必ずなにかしら希望を見いだし、前へと一歩を踏み出す。そんなたくましさをもっているのが人間だと考えます。
被害に遭われた方はそれぞれ異なりますので、安易なことは言えません。
一人ひとりが自分の置かれた立場で考えて行動することだと思います。
そして、私にとって「幸せ」とは何かを改めて考える機会にもなりました。特別でもなく、何の変哲もない日常が一番の幸せだったのだと。
私は万が一、当りまえのことが当たり前のことでなくなってしまっても悔いのないように、毎日、感謝の気持ちを忘れずに自分に出来ることを考えて行きたいと考えています。
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
今日という日がみなさまにとって、よい一日になりますように。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。