野球小僧

杉原千畝 / 命のビザ

「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった」

杉原千畝(すぎはら ちうね)さんは第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナス(当時の実質的首都。現在はリトアニア第二の都市)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人に「命のビザ」を発給し、避難民の救済に尽力しました。同じく多くのユダヤ人を救い、1994年の第66回アカデミー賞で作品賞、監督賞など最多7部門を受賞した「シンドラーのリスト」(スティーブン・スピルバーグ監督)で世界的に知られるドイツ人実業家オスカー・シンドラーさんになぞらえて「日本のシンドラー」とも呼ばれています。


「命のビザ」とは杉原さんによって、ユダヤ人難民に発給された日本通過ビザのことを指します。

1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻で、多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込みましたが、ソ連によるリトアニア併合が確実となったため、ユダヤ人の多くは日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法を選びました。

1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民が日本領事館へ押し寄せ、杉原さんは本国の命令に反してユダヤ人難民にビザを発給を続けました。「命のビザ」によって救ったユダヤ人の数は、少なくとも6000人に上ると言われています。

第二次世界大戦開戦を直前の1939年。当時の日本は友好国のドイツが共通の敵国であったソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したことで、大混乱に陥っていました。そして、ヨーロッパ全土がナチスの脅威にさらされる中、迫害され逃げ場を失ったユダヤ人にとって、最後の望みの綱が「命のビザ」といわれる日本通過ビザでした。このビザを取得し第三国に逃げる以外に生き残る方法はありませんでした。杉原さんは外務省本省にかけ合いますが、日独伊三国同盟の締結を間近に控えた本国からは国内の政治事情もあり、ビザ発給の許可はおりませんでした。

しかし、必死な思いでリトアニアまでたどり着き、ビザの発給を懇願するユダヤ人たちを見捨てることも出来ず、ユダヤ人の人命救助、かたや外交官として本国の指示に従うべきとの判断の狭間に立たされます。

戦時下という緊迫した状況のもと、日本から遠く離れた異国の地で無断で大量のビザを発給すれば、自分はもちろんのこと家族の身も危険がおよぶ可能性もありました。が、必死で助けを求めるユダヤ人たちを目の前にした杉原さんは、家族の理解と後押しもあり、外交官としての自分の立場や外務省の指示よりも、人間としてなすべきことを優先させ、独断で「命のビザ」発給を決断します。

領事館が閉鎖され、外務省本省からのベルリンへの移動命令を無視することが出来なくなるギリギリまで、寝る間も惜しんで杉原さんはビザの発給をしましたが、すべてのユダヤ人を助けるには遠く及びませんでした。そして、「命のビザ」を手に入れたユダヤ人も、その全員が無事に目的地にたどり着くことが出来ませんでした。

杉原さんが去った後のリトアニアでは約21万人いたとされるユダヤ人のうち19万人以上が犠牲となり、そのほとんどが1941年6月から12月の半年間でのことです。

戦争が終わり、やっとの思いでヨーロッパから帰国した杉原さんを待っていたのは、外務省内のリストラを理由とした辞職勧告でした。事の真偽の程は定かではありませんが、杉原さんが人道的立場から発給した「命のビザ」は、正式に本省の許可を得てはいなかったため、その責任を取らされる形で辞職を迫られたと考えられています。

外務省退官後は、覚悟していたとはいえ一家の生活は困窮し、食事にも事欠く日々が続き、いくつかの職を転々とした後、1960年に貿易会社の所長として、再びヨーロッパの地に舞い戻りました。以降15年間の海外生活を過ごした後、1986年7月31日、86歳でその生涯を閉じます。

なお、日本国政府による公式な杉原さんの名誉回復が行われたのは、死後14年も過ぎた2000年10月10日になってのことです。

「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です」(2000年10月10日の河野洋平外務大臣)

戦後、ユダヤ人たちは戦争中に様々な形で恩義を受けた人々を一人ひとり探し出してはお礼を続けていましたが、杉原さんと再会するには28年かかりました。これは杉原さんの「千畝(チウネ)」という名前がユダヤ人にとっては発音が難しかったため、音読みで「Sempo(センポ)」と呼ばせていたため、「チウネ・スギハラ」ではなく「センポ・スギハラ」を探し続けていたそうです。

実際にユダヤ人協会からの問い合わせに対して外務省は、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答したそうです(当時の外務省関係者名簿に杉原姓は3名しかいなかったそうですが、状況から判るはずです。こういうところが、いろんな意味でのお役所的な対応です)。

1968年8月、一時帰国していた杉原さんの元に、イスラエル大使館から電話がかかって来て、大使館に来るように言われた杉原さんは不思議に思いながら、一人の参事官と面会しました。

その参事官は杉原さんに会うなり「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、記憶に無かったため「申し訳ありませんが」と答えると、その参事官はボロボロになった一枚の紙切れを杉原さんに差し出します。それは杉原さんが発給し、多くのユダヤ人を救った「命のビザ」でした。

「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません。28年間あなたのことを探していました。やっと、やっと会えました”Sempo Sugihara”。」

涙ながらにそう告げます。この参事官はリトアニアの領事館で代表の一人として、ビザの発給について交渉を行った方でした。彼は日本のイスラエル大使館に赴任すると、”Sempo Sugihara”をなんとしても見つけ出し、あの時のお礼をしなければと八方手を尽くしたそうです。

1969年に杉原さんはイスラエルに招待され、宗教大臣の出迎えを受けました。彼もビザ発行の交渉を行い、「命のビザ」によって命を救われたユダヤ人の一人でした。そして、この時に「命のビザ」が杉原さんの独断で発給を続けていたということ知りました。“Sempo Sugihara”の発見とそれに引き続く事件の真相の判明はユダヤ人たちに大きな衝撃を与えました。

そして、自分たちの命を救った外交官の勇気と英断を評価しない日本国政府に代わり、ユダヤ人はその恩に報いるためヤド・ヴァシェム(ナチスの犠牲者追悼のための国立記念館)に杉原さんの名前を飾り、「諸国民の中の正義の人」の称号を贈ってその功績を讃えました。「諸国民の中の正義の人」とは、ナチスによるホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った、非ユダヤ人の人々を表すイスラエルで最も名誉ある称号であり、杉原さんはこの賞を授与された唯一の日本人です。

また、ゴールデン・プレート(ユダヤ民族で世界に偉大なる貢献をした人物、もしくはユダヤ人が忘れてならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)にも、モーゼさん、メンデルスゾーンさんやアインシュタインさんといった偉人たちと並んで杉原の名が刻み込まれています。

さらに1985年11月にはイスラエルのエルサレムの丘に杉原さんの功績を称える顕彰碑が建てられることになり、その様子を手紙で知った杉原さんの目には涙が溢れたそうです。

杉原さん自身、ビザ発給について、あまり多く語ることはなかったそうですが、亡くなる一年ほど前にこのように答えたという記録が残っています。

あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
絶望のあまり、私の靴に口づけする人もいた。
そう、そんな光景をわが目で見た。
そして当時、日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情を言ってくるのは分かっていた。しかし、私自身これが正しいことだと考えた。
多くの人の命を救って、何が悪いのか。
もし、その行為を悪というなら、そういう人の心に邪なものが宿っているからだ。
人間性の精神、慈悲の心、隣人愛、そういった動機で私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。
そんな動機だったからこそ勇気百倍で前進できた。

そして、いつも淡々とこう語っていたそうです。

「新聞やテレビで騒がれるようなことじゃないよ。私は、ただ当然の事をしただけだから」

杉原さんの「命のビザ」が、世界各地に伝わる古文書などを保護するユネスコの「記憶遺産」に推薦されることになりました。これは日本ユネスコ国内委員会が2015年9月24日に2017年の登録を目指す記憶遺産の候補として「命のビザ」を含む杉原千畝さんの資料を選定したものです。

今の子どもたちに知って欲しいと思います。今の大人たちに思い出して欲しいと思います。命の大切さ、他人を愛する気持ちを。


コメント一覧

まっくろくろすけ
Nさん、こんばんは。
私が杉原さんの立場に置かれたらどうでしょう。

自分自身が正しいと思ったとおりの行動が出来るかどうか。

日々の言動に反省です。
まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
杉原さんのことを知ったのは二年ほど前でした。この文章の一部はその時のものです。
映画については、一週間ほど前に知りました。何しろ、日テレ系はあまり観ていませんので・・・

人が人を助けるのには理由なんかはいらないでしょう。それを理屈抜きで実践できることが、人として見習いたいです。

本当に。

Nより
杉原さんのお言葉、凄すぎです
感激、
感心、
新聞やテレビで騒がれるようなことじゃないよ。私は、ただ当然の事をしただけだから
感激、
感心です
Unknown
おはようございます。

東進ハイスクール 金谷俊一郎先生に対抗した
中信ハイスクール 真黒介先生の歴史講義ですね!!

杉原千畝さん・命のビザは唐沢寿明さんが番宣することによって
知ったという輩です。

日本国を相手に自分の意志を貫いたのには感服です。
「新聞やテレビで騒がれるようなことじゃないよ。私は、ただ当然の事をしただけだから」
 ↑平然とこういう事を口にされるのですから・・・
言葉がありませんね。

今、各国で起きている悲しい出来事・・
最後の一文を本当に知って欲しいものです。
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