ブルキナファソという国をご存知でしょうか。
ブルキナファソは西アフリカに位置する共和制国家です。第二次世界大戦後の1960年にオートボルタ共和国としてフランスから独立し、1984年に現在の国名に改称しました。
ブルキナファソの主要産業は農業ですが、2010年のGDP(国内総生産)は88億ドルで国連加盟国中117位、一人あたりのGDPは世界平均の1割に満たない国です。
日本との関係は1960年のオート・ボルタ共和国の独立と同時に同国を承認、1979年より経済協力を開始しました。当初は食糧援助や肥料等の援助が中心で、水、教育等に協力分野を広げ、今では保健、農業、環境と協力分野が広がっています。
また、2009年の在ブルキナファソ日本国大使館が開館の後は、文化面や人事面での交流も盛んになって来ています。
2007年度JAIC(=独立行政法人国際協力機構: Japan International Cooperation Agency、略称JICA、ジャイカ)第4次隊にブルキナファソの初代野球隊員として派遣された出合祐太さんは、現地で出会った子どもたちに野球を教え、夢中になって練習する子どもたちの姿を見るうちに、野球を根付かせたいと、日本でプロ野球を目指す計画「プロチャレンジ・プロジェクト」を子どもたちに提案しました。
その後、二年間の準備期間を経て、出合さんは再びブルキナファソに戻り、日本に派遣する選手を選考し、出合さんの帰国後も練習を続けたブルキナファソの子どもたち約200人の中からサンホ・ラシィナくん(当時15歳)が選ばれ、2013年6月に来日しました。受け入れに協力してくれた独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに研修生として加わり、7月に入団テストを受けました。
結果は不合格に終わってしまいましたが「不合格だったことは悔しいが、反省して学ぶことで、成長できる。プロ選手を超えるために、何をすればよいのか考えたい」と語り、ラシィナくんは帰国します。
そして、三代目野球隊員の杉山弘樹さんの下で特訓し、技術を磨きていました。ラシィナくんの身体能力の高さと野球に取り組む真剣な態度がチームを動かし、機会を得て2014年3月に再来日し、練習生として、もう一人の外国人練習生、ブラジル人の水野ジョナタン正一君くん(17歳)と共に登録選手を目指し、練習に励んでいました。
リーグの規定で練習生がチームに在籍できるのは二年間だけです。ラシィナくんは今リーグ終了までに「登録選手」に入らなければ、チームを去らなければなりません。
身体能力が高く、チームメートから一目置かれるほどの練習好きで、来日した頃とは比べものにならないほど打撃も守備も、そして日本語も上達しました。
そんなラシィナくんの努力を地元ファンはしっかりと見ていて、後期リーグ開幕前の7月にオープン戦に出場すると、電撃的入団で話題を集めた藤川球児選手に負けないくらいの声援が17歳の少年に贈られました。
「ラシィナくん、頑張れ!」
来日直後、打撃マシンの球を空振りしていたレベルから、プロ初出場し、練習生のため試合用のユニホームがなく同僚から借用しての出場でしたが、二回の第一打席にセンター前ヒットを放ちました。
そしてチームは8月24、25日にラシィナくんの「昇格テスト」を実施。50メートル走や遠投、ノック、フリー打撃などで審査を行いました。その結果、昇格テストに合格し、晴れて登録選手となり「ブルキナファソ初のプロ野球選手になる」という目標を達成しました。
9月4日の愛媛マンダリンパイレーツ戦では「八番・サード」で初めて先発出場しました。
来季もチームに残ることが濃厚で「もっと試合に出て結果を出したい。次はNPBを目指したい」とラシィナ選手は目標を持っています。
梶田宙(ひろし)球団社長も「こつこつやってきた成果。最初から見守ってきた高知の人たちには感動モノです」と言います。
また、青年海外協力隊員に野球を学び、兵庫ブルーサンダースの入団テストに合格したウガンダ人のワフラ・ポール選手がいます。またブルキナファソからはラシィナ選手に続き、新たに4人の少年が今年来日予定になっています。彼らアフリカ人選手の挑戦に注目です。
青年海外協力隊員との出会いがきっかけとなり、プロ野球選手を目指し、練習に打ち込む遠くアフリカからやってきた少年たち。ジャパニーズドリームを勝ち取って欲しいです。
~ユメ、カナウマデ~
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