子母沢寛(しもざわ・かん)さんの代表的長編小説。生涯を小普請で終わった勝小吉が息子の麟太郎(のちの海舟)だけでも世に出したいと考え、日夜心をくだく。その小吉の江戸っ子侍的な気質は麟太郎にも伝わり、人間的交渉もまたそこに生まれていく・・・勝海舟の父子の情を深い共感をもって描いた小説。
つまり、一つの目標に向かって努力する父と息子をいう言葉です。
さて、私的に「親子鷹」と言われて、真っ先に思い出すのは1970年代東海大相模高の原貢監督(元;東海大系列校野球部総監督)と原辰徳さん(現;読売ジャイアンツ監督)。
(どちらも“原”ですので、“貢”と“辰徳”で書かせていただきます)
辰徳さんは1974年に東海大相模高に入学。既に同校で野球部監督をしていた貢さんと「親子鷹」として世間の注目を集めました。
辰徳さんは「五分五分の力なら補欠だ。六分四分でも補欠。七分三分なら考える。おまえは耐えられるか」と言われたそうです。
東海大相模時代の貢さんの指導は“鬼監督”、“鬼父”と呼ばれるほどでした。、チームでは誰よりも怒られ、他の選手に同情されるほどだったそうです。
1976年。辰徳さん高校生活最後の夏のある日。貢さんがノックをしていると、三塁の守備位置にいた辰徳さんが腕組みをして虚空を見上げていたそうです。その姿が貢さんの逆鱗に触れてしまったそうです。
辰徳さんは一年夏から3回も甲子園に出場し、通算打率は4割を誇り、二年春のセンバツでは、決勝の高知・高知高戦で左中間最深部に特大アーチを架け、バッターとしての評価を不動のものにしていました。
辰徳さんの姿に驕りを感じ、「なんだ、その態度は!」と叫び、ノックバットを投げつけ、突進。右手の拳でブッ飛ばし、倒れた辰徳さんに足蹴りを加え、下腹部にスパイクをめり込ませたという。
そのときグラウンドは凍り付いたそうです。
まだ、これでは収まらず、ノックバットを手にして、グラブを外させ、ホームベースから5メートル先の三塁方向に立たせ、ノックを見舞ったという。
硬球が体にめり込み、全身が痣だらけになり、辰徳さんは「殺されるかもしれない」と思ったという。
なぜ辰徳さんだったかというと、「せがれだから、やったのよ。ほかの選手にはやりゃしねえ」と貢さんは後日語ったそうです。
それは選手たちに緊張感を持たせるため、あえて生贄にしたというのだったそうです。
この年、神奈川大会を圧倒的な力で勝ち上がった東海大相模高。甲子園でも優勝候補筆頭でしたが、二回戦で栃木・小山高に0対1で敗れてしまいます。
辰徳さんは4打席ノーヒット。「高校生活最後の打席は何としても塁に出たかった」と人前で初めての涙を見せたそうです。
そして、報道陣がインタビュー通路から去ると、貢さんは辰徳さんに「おまえも辛かっただろうけど、俺だってきつかったんだぞ」。その言葉を聞いた瞬間、過去のわだかまりが消え、再び体を大きく震わせたのとのことです。
辰徳さんの監督像は父・貢さんをお手本と言われています。
その象徴的な場面として2013年6月25日の広島東洋カープ戦(マツダスタジアム)が挙げられています。この試合は2対4とジャイアンツが2点ビハインドの8回表、この回に二度のダブルスチールを仕掛け、成功させて6対4と試合を逆転。
最初は、2アウト一・二塁から五番・小笠原選手(現;中日ドラゴンズ)の打席で二塁ランナー亀井、一塁ランナー坂本選手の場面。小笠原選手はフォアボールで満塁となり、六番・鈴木選手にピンチヒッター・矢野選手。その矢野選手が殊勲のセンター前ヒットを放ち、4対4の同点。
再び2アウト一・二塁から、またもダブルスチールを仕掛け、成功。今度は二・三塁から七番・村田選手がライトへ勝ち越し2ベースを放ち6対4と逆転。
試合後、辰徳さんは東海大相模高一年夏の甲子園大会初戦の茨城・土浦日大高に1対2とリードされた9回裏2アウト一塁のシーンを振り返ったそうです。
「(監督のおやじが)土壇場で盗塁のサインを出したんだ。砂埃が立ち、しばらくして、審判が横に手を広げるのが見えたときは、本当に衝撃的だったよ」
この二盗成功が同点打を呼んで延長16回裏に3対2でサヨナラ勝ちを収めます。
辰徳さんは「僕の描く“監督像”の原点は、もう一人の「原監督」にある。……「原監督」――つまり、僕の父から受けた影響は、とてつもなく大きいものだ」と語っています。
その貢さんが先日、亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。