小柄な体からの切れ味鋭い技、豪快な一本背負投が得意技であり、常に一本を取りに行く姿勢から、富田常雄さんの小説「姿三四郎」の主人公と重なり、「平成の三四郎」の異名をとった古賀稔彦さん。
ほぼ同年代の私にとっても、2021年3月24日の訃報は大きな驚きでした。
体調を崩したのは2020年のことだったそうです。2020年3月に、がんのため腎臓を片方摘出しましたが、それでも普段どおり以前と変わらない量の仕事をこなしていたそうです。
昨秋の講道館杯全日本体重別選手権では現場を訪れ、見た目にもやせていたものの、関係者には、「トレーニングで減量している」「まあまあ元気」と病気のことは隠していたそうです。また、病気のことは、お母さんにも黙っていたままだったそうです。
ところが、2021年2月中旬ごろに再び体調が悪化し、「ちょっと療養するわ」と自宅療養を始めますが、その後も関係者とは連絡を取り、現役時代の攻めの柔道の姿勢そのまま、最後まで弱みをみせることはなかったそうです。
1992年のバルセロナ・オリンピック直前に吉田秀彦さんとの乱取り練習中に左ひざを負傷、痛み止めを打ちながら金メダルを獲得、1996年アトランタ・オリンピックでは銀メダル、世界柔道選手権では3度の優勝を飾っています。
2000年、現役を引退し、指導者として活躍し、体調を崩した後も、病気を隠して仕事を続けるなど、最後まで柔道に尽くした人生でした。
一方で、輝かしい成績ばかりではありません。
1988年ソウル・オリンピックでオリンピックに初出場するも、3回戦で敗退しています。
そこに待っていたのは、メディアの手のひらを返したような冷たい反応でした。この時は、本当に落ち込んだそうです。自信を失くし、人間不信にもなったそうです。
でも、そんなとき偶然見たオリンピックの編集編の番組に、古賀さんが負けた試合の後、応援席で周りに懸命に頭を下げるご両親の姿が映っていたそうです。
古賀さんは、「一人で戦って、一人で負けたと思っていた」そうですが、現実は違ったのです。それからは、結果を恐れず、純粋に自分の目指すものに向かって挑戦していこうと思うようになったそうです。
「一生懸命やっていれば、最悪の結果が出たとしても、支えてくれる人がいる」
そう、世の中は決して一人ぼっちではないと思います。いろいろな場面で、いろいろなことで支えてくれる人がいるのです。きっと、それに気づけていないだけだと思います。
「気づき」というものは、大事にしたいと思います。
また、古賀さんは、次のようなこともいっています。
「今の自分では上手く行かないから、壁にぶつかる。つまり、その壁が自分の足りないものや必要なもの、いろいろな課題を教えてくれるんです。それにちゃんと気づける人は、次に変化ができる人だと思います」
ご冥福をお祈りいたします。
今日も、私のブログにお越しいただいてありがとうございます。
今日がみなさんにとって、穏やかで優しい一日になりますように。そして、今日みなさんが、ふと笑顔になる瞬間、笑顔で過ごせるときがありますように。
どうぞ、お元気お過ごしください。また、明日、ここで、お会いしましょう。