【喜びも哀しみも
ことばで表そう
にんげんだもの
~ 碁を囲む春夏秋冬】
古くから
表面の部分を「面(おもて)」
隠れている内面を「うら」
といいました
心(うら)から派生したことばは多く
恨む、憂う、占い、羨ましい、などなど
マイナスイメージがつきまといます
嬉しい、も そのひとつですが
これはポジティブな使い方
碁に勝って嬉しい、とは
どちらかといえば個人の快さ
もうひとつ、よく使うことばに
楽しい、がありますね
こちらは、ひとりというよりは
ふたりあるいは大勢で
共に味わうプラス感情です
いまは俗説とされますが
語源は「手伸(たの)し」と
古くから信じられてきました
愉快になれば、手を伸ばして
踊り舞うから、というのです
なんだかホカホカします
魂が伸び伸びするという意味で
霊伸如(たまのびし)からきた
という説もあるようです
◇
いずれにしても碁将棋の類い
多くは ひとりではなく
ふたりで興じる趣味です
勝った!負けた!もいいですが
ともに楽しむこと、つまり
親睦・交流を大切に想うほうが
味わい深くよろしいと存じます
となれば、当然のこと
技量と同時に、所作・マナーも
ないがしろにしてはなりません
本質は勝負事であったとしても
力を出し切って技を競い合う
ノーサイド精神でたたえ合う
ここを軽視してはなりません
冬季五輪が終わりました
限界を超えた挑戦と勇気
国境を超えた友情と敬意
感動的シーンがありました
薬物、誤審、政治利用など
隠しきれない負の側面まで
露わになりました
わたしの好悪ですが
個人戦より団体戦が
強く心を打ちましたし
負の側面も含めての
歴史の一頁であった
と思うのです
翻って、
わが〝百人碁会〟をみると
コロナ騒ぎが続くなか
例会にせっせと通ってくれた
三十数人の命知らず(?)に
感謝と敬意を表しておきます
今を生きる彼ら彼女らには
親睦と交流が何たるかが
分かっているのでしょう
どのような状況に至ったとしても
生きているうちは何とかやっていく
にんげんは死ぬまで生きている
悪いことばかりではありません
◇
さて知恵に次いでは勇気が
われわれの幸福にとって
極めて重要な特性である。(中略)
この世界に生きるには
運命に対する装甲と
人間に対する武装とを備えた
断固たる気魄が必要である。
けだし人生は
そっくりそのままが
闘いである。(中略)
<わざわいは避けるな
雄々しく立ち向かえ>
を我々のモットーにしたいものだ。
一片の紺碧が空にある限り
天候を絶望視してはならない
と同様に
危険な出来事の結末が
まだ疑わしく
好転の可能性がまだある限り
怯(お)め臆(おく)しよう
などとは思わず
ひたすら抵抗を思え。
それよりはむしろ
<世界が崩れて落ちるなら
かけらは怯まぬ
男子(おのこ)おぞ打つ>
と言えるくらいになってほしい。
人の一生は
おびえ慄(ふる)えて縮むほど
大事なものではない。
いわんや人生の財宝をや。
<されば猛(たけ)く生きよ
猛き胸倉を運命の矢面に立てよ>
アルトゥール・ショーペンハウアー
「筆のすさびと落穂拾い」1851年
▼〝百人碁会〟の夏と冬
▼東京・飯田橋の囲碁サロンの秋
碁笥の中に手を突っ込んだまま考えています
アマの対局風景の多くが こんな感じです
上達を妨げている根本原因のひとつです
よく考えて、着点が決まったら、石をつまみ
くるり回して、おもむろに、盤に置きましょう
そうすれば「待った=打ち直し」はなくなります
「手拍子」「うっかり」も消えてゆくでしょう
何事も基本がなくては「頭打ち」になるのは必定です
わたしが世話人をやっている限り
問われれば待った・打ち直しは反則負け
と例外なく断じます
特に手本となるべき高段は恥を知りなさい
勝敗は対局者同士が決めることですから
赦すも赦さぬも勝手にすれば結構ですが
ダメなものはダメとだけは
はっきりと申し上げておきます