
【「囲碁由来の言葉」は誤解を生むの巻】
■「白黒をつける」という言葉は、碁石の色からきているらしい。
■辞書には「物事の是非・善悪・真偽などを決める」「決着をつける」などとある。
■わたしは、せっかく小学生で覚えた碁を、半世紀近くもほったらかしにしてきた。そして、3年前に再開した。随分寝かせたものだと思うが、これによって気付かされたことが幾らかある。
■その一つ。この魅力的で小さな世界は「優劣を競って決着をつける」というよりも「言葉に変わる手段で対話をする」ことではあるまいか。この思いがふと浮かび、強くなってきたのである。
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■生れて人間社会を生き抜くには、小さい頃に世の中の決まり事を、頭と体に叩き込まねばならない。先生や親から「正解を覚えよ」とうるさく言われる。
■だが大きくなるにつれ、そして社会に出ると、一途に正解を見つけることができなくなる。そもそも、この世では「誰の目にも正解」とされることは、わずかしかない。大人になってようやく、わたしたちはさんざん思い知らされるようになる。
■誰彼のものでなく「自分の人生を独創的かつ溌剌と生きる」にはどうするか。「答え」をどこかから引っ張ってくることもあるが、最後は自ら問い、自ら決めるしかない。
■今も昔も、平凡な教師は、答を隠し、クイズのように当てることを求める。「正しく訊く」「上手く質問する」ことを教えなければ、この難しい人生をどう乗り切れますか?
■質問するのは自分で考えること。上手く質問すれば、もう答えはそこに含まれているのである。マークシートなんぞで、一体何を測ろうというのか。
■学者は調べ、分類し、理由付けすればよい。メディアは、右か左か、賛成か反対か、と世論調査のように訊けばよい。これはこれで有益であるが、あなたの人生を決める「材料」でしかない。「自問自答」でしか、道は開けないのだ。
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■言葉は人と人とを結ぶ。だが言葉は人と人を切り離すこともある。
■よって人間は言葉以外のフォーム(型)を使った多様な交信道具を求めたのだろう。それが芸事であり、スポーツであったりする。
■さて交信する時、注意しなければならないのは、「対話の心」を忘れないことだ。
■「雄弁術」「レトリック」にはそれがない。自分が勝ちになる、皆を感心させることができる。目的は真理になく、自己の利益にある。主張ばかりで、耳を貸さない。国会中継が「劇場」に見えるのは、そういうことである。
■批評とは、他人をほめる技術である。上手に質問する技術である。その過程において論難しても説得しても、二人が己を捨てて目線を真理に向けさえすれば、それでいいのだ。
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■碁将棋にせよ、柔剣道にせよ、相撲にせよ、日本的なるものは「道」である。勝った負けたで優劣を定め、メダル獲得か、予選敗退か、だけではなんとも味気ないではないか。
■プロの碁は賭け碁(賞金など)である。
■アマの碁は勝負かつ対話である。
■勝負が決まり、石を崩して、「はい、おしまい」の人とは、「また是非ともお手合わせ願いたい」という気は全く起きないのである。