霊感とは
作者を観察者の役割にまで
引き下げる仮説である
――ポール・ヴァレリー
【水木しげる、妖怪への愛を語る ~ の巻】
霊感は、英語でインスピレーション(神来)である。
人間の精神に与えられる霊の微妙な作用を指し、
普通の理屈や科学では説明しきれない不思議な力のことである。
簡単にいうと、神仏の霊妙な感応、とでもいえようか。
科学者の多くは迷妄・迷信というだろうが
大哲学者ベルクソンなどは、それを信じ、肯定した。
水木しげるは幼い頃、
まかない婦の景山ふさ(のんのんばあ)が
語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受けた。
以下は、妖怪漫画の第一人者となった後、
自身の半生を語った一文(抜粋)である。
◇
私は、お化けが全然 架空のものだ
とは思っていない。
それは昔の人の描いた巻物になったお化けの絵とか、
鳥山石燕の描いた妖怪画に感ぜられる。
すなわち“なにか”あったから考え付いたことなのだ。
私は柳田国男の「妖怪談義」だとか
鳥山石燕の「百鬼夜行」なぞを
常に頭の中に入れ、
理解できない妖怪を
なぜこうなるのか、
と ヒマな時は考えることを常としている。
なぜ私が妖怪にとりつかれたかというと、
初めて妖怪の書に接した時、
半分ぐらいは立ちどころに理解できたからである。
これは私が子供の時から日夜感じてきたことが
形になっていたに過ぎなかった。
私はその時、我々の祖先の心に接したような気がして、
思わず心の中で、
“はなせる”と膝を叩いたものだ。
よく暗い夜の田舎道を歩いていると、
なんとなく恐怖に襲われることがある。
そして、そうした時は、
速く歩こうとするとすればするほど、
足はもつれがちになるものだ。
それは「あしまがり」という
綿のような妖怪が足に絡みつくからだという。
暗い夜の田舎道を歩く気持ちを
よく表している。
また田舎でよく五右衛門風呂に入るのだが、
これは大抵 夕方とか夜だ。
何かのはずみで風呂桶を昼間に見ると、
桶の隅々に気味の悪いアカなどがあって
ゾーッとすることがある。
このアカは妖怪「あかなめ」を招くことになるのだ。
「あかなめ」は、人のいない時、そのアカをなめに来る。
また、昔の家は古く、
よく天井などに不可解なシミなぞが付いている。
私は小学校の頃、
学校の天井のさまざまなシミが
巨大な妖怪を思わせるような図になっていて
毎日 授業中、天井を眺めてさまざまな幻想を
抱いたものだが、
昔の人にもそういう思いを抱いたものがあるとみえて、
「天井なめ」というお化けを考えている。
「天井なめ」は、誰もいなくなった夜とか、
授業が終わってシーンとした学校なぞに
どこからともなく現れて
不可解なシミを付けるのだ。
子供の時、誰もいない神社などを歩いていると
どこからともなくパラパラと砂が落ちてきて、
木の葉に当たる音がすることがある。
驚いて振り向いてみても何にもいない。
それは「砂かけ婆(ばばあ)」のしわざである。
よく、妖怪とか お化けの本を見ていると、
火の妖怪が出てくる。
私は鬼火すら見たことがないから
「みの火」とか「なになに火」とか
書いてあっても分からなかったが、
ある時、
「みの火」という蓑(みの)に着く妖怪の正体が分かった。
朝、蓑を着て畠にゆく時に、
蓑に溜まった露が朝日に当たってキラッと光る。
それが、ある角度になるとダイヤモンドのように光る。
なるほど これが「みの火」というのだなあ、
と5年ぶりに分かったのである。
(中略)
といった具合に、
私は真面目に妖怪を考えている。
政治家の発言を借りれば、
いわゆる“前向き”の姿勢で対しているのだ。
なんとなれば、ソレがあるからには
何らかの理由があるからだ。
(了)
★過去に投稿した当ブログの怪しい記事
2020年2月5日 純白の美女
2020年1月6日 囲碁の日 ~ 妖怪伝説
2019年8月14日 真夏の“ネコ怪談”
ジャングルの奥地に住むポンゴと呼ばれる毛むくじゃらの怪物が、現在ではゴリラと呼ばれているように『何か?』があるんでしょうね。
心理的なものかも知れないし、自然現象かも知れない。
やはり霊的なモノなのかも知れませんが『火の無い所に煙は立たない』と云う事だと思います。
そ、そうこなくちゃあ~!