【そろそろ「大会」のあり方を考え直してはどうか
~ 金太郎アメのような大会運営を再考せよ! の巻】
新型コロナ禍の囲碁同好会で例会参加者が低迷している。
会場の「密」防止のため、人数制限をしているのが主因。
碁会場に行っても「打てるかどうか保証されない」のなら
足が遠のくのも当然である。
三十年の歴史のなかでやってきた大会や旅行などの
「お楽しみ企画」が開催できないもの大きい。
「ただ打つのが好き」というヒトだけが
ぼちぼちやってきて、1局、2局のんきに打っている。
わたしは「心静かに打つ」のが好きで、
これはこれで十分なのだが
百人規模の会に求めるモノは
人それぞれなのである。
さて、同好会の企画行事といえば
まずは定番の「囲碁大会」である。
全国各地、どこでもやっているが
これがまた、判で押したように同じスタイル。
半年単位ならリーグ戦だが、
1日でやるならトーナメント戦になる。
まず「集まる」、そして「組み合わせ抽選」
何局か勝ち抜いていくと、多くが負けて
最後に優勝者、準優勝者が決まる。
これはこれで構わないが
優勝者だけが愉しい一日で
残りの人はブスッとする――。
つまり金メダルを決めるのが「大会」なのだ。
あるいは銀か銅のメダリストを決めて
あとはサヨナラということになる。
プロ大会や五輪などはこれで結構だが
親睦目的の同好会になじむようなことか?
はなはだ疑問に思ってきた。
大会では
「待った=打ち直し」などズルをする者もいたり
細かなことだが当事者にとっては大事なことで
言い争いが起きたり、という風景もある。
これじゃ親睦とは逆のベクトルではないか。
そうして、いつも勝つヒトがいて
いつも負けるヒトがいる。
同好会はこうして
有段者が会に残り、級位者は去って行く。
高段者の多くは置かせ碁は好まず
いつまでも級位者は置き去りである。
むろん勝負事であるから
何を寝ぼけたことを言っとる
と、お叱りがあるかもしれぬ。
だが、そう言わず、
立ち止まって考えても
いいではないか――。
◇
さまざまな批判と賛美に彩られた東京五輪。
あっという間に残り少なくなったが
記憶に残る名シーンが随所に現われ
心のビタミンになっている。
わたしが強く印象に残った光景の一つ。
「個人」初の銅メダルを獲得した彼女が
受け取った花束を、もう一人の銅メダリストに
先に渡したシーンである。
大きく取り上げられたワケではないが
これこそが表彰台での「美技」である。
彼女は「金」がほしかったし
「金」の演技をしたが
結果は、「銅」だった。
怪我と不調をくぐり抜け、その先に
栄冠に輝いても尊大になることなく
笑顔と感謝の言葉が自然と出る。
選ばれし者はこうでなくては
ならぬ、という見本である。
そして「大会」をやる意義は、
こうした一瞬一瞬にある
と、わたしは思うのである。
勝者と敗者、その陰影がドラマをつくる。
だが、それでもなお、
市井の同好会ならばノンビリと
のんきな一日一局のような
企画があっても悪くないのではないか。
こちらは商業主義とは無縁なのだから。
バトルロワイアル 大規模な乱戦のこと。「王の」「王室の」を意味する言葉が語源。カタカナ表記は「ロイヤル」が英語、「ロワイアル」がフランス語の発音が由来。