徳川三代将軍家光の草履(ぞうり)取りに
歯が反って、口が突き出、
いつも笑っているような顔
をした者がいた。
ある時、家光が鷹狩りから帰り、
騎乗のまま、後ろを振り向くと、
その草履取りが、やはり笑ったような顔付きで
控えていた。
家光は、ひどく機嫌が悪くなり、
老中の堀田加賀守正盛に
「あの草履取り、斬って捨てよ」
と命じた。
翌日のことである。
家光は、正盛に
「斬ったか」と言った。
正盛は「まだ、です」と答えた。
翌々日、家光は、
また同じことを言った。
正盛は、
「今夕、斬ることにします」
と言った。
しかし、正盛には
斬る気持ちはなかった。
十日ばかりたった。
家光は、また同じことを繰り返した。
正盛も同じ返事をした。
「まだ、です」
とうとう家光は正盛に尋ねなくなった。
正盛の同じ返事が
草履取りの命を救ったのである。
(原典:名将言行録)
* * *
挨拶(あいさつ)をしても
返事をしない者がいる。
(できない者?)
「挨」は「せまる」
「拶」も「せまる」
が訓読みである。
押せば、押し返すのが
コミュニケーションの基本のキ。
返事をしないのは、無視である。
しかし、
その挨拶にもやりようがあり
問われたことに
真正面から答えねばならぬ
というワケでもない。
そこがコミュニケーションの
〝あや〟なのである。
懐に呼び込んで
時を置いて寝かせるのも一興。
いや、絶対権力者への応対も
寝技よりなかったといえようか。
当時はまだ
人の命を軽んじる風潮が色濃く
殺伐とした戦国の空気感が残っていた。