囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

本因坊五百年の歴史6

2022年06月12日 | ●○●○雑観の森

 

【秀栄と秀哉の場合 ~ 孤高の名人たちの苦難】

 


徳川幕府という大スポンサーを失った後

明治以降の囲碁世界は苦難の連続だった

秀甫の後、大名人となった本因坊秀栄(しゅうえい)

最後の世襲制名人となった本因坊秀哉(しゅうさい)

 

二人は、ともに並び立つ者なし

一時代を築いた「ひとり名人」であり

後ろ盾のない困難な時代を生きた

特に秀栄は、腕は天下一品だが、

芸術至上主義の狷介さからか

経済的苦労は終生ついて回ったのである

 

     ◇

 

秀栄は若い頃、

秀策なきあとの天下名人・秀甫から

軽くいなされ、手玉に取られていた

 

が、四十代から尻上がりに充実しはじめ

秀甫没後に「ひとり名人」として君臨した

平明な打ち回しで、軽く勝ってしまう芸は

いまも人気が高い

 

明治40年に亡くなった秀甫

その後、一人天下となった秀栄

ただひとり、定先の手合を保った秀哉

 

     ◇

     

大正3年、

名人位に就いた秀哉もまた、

地位がヒトをつくるが如くに

次第に名人らしくなってゆく

 

身長150㌢、体重30㌔余り

背筋を伸ばし盤前で睥睨する姿に

対局相手は強い威圧を感じたという

 

秀栄とは対照的な打ち回し

戦闘的芸風で激戦に強い

置かせ碁での指導にも長けており

下手ごなしの名手の異名もある

 

昭和12年、本因坊名跡を

日本棋院に譲り、引退表明

翌13年、病に苦しみつつ

次世代のエース木谷実七段と

半年がかりの空前絶後の対局に臨み

白番5目負けとなった

同15(1940)年1月18日他界

 

最期の名人の死は

古き良き時代の終わりを意味した

新聞の観戦子を務めた川端康成

自著「名人」で、その様子を

格調高く克明に綴っている

 

    ◇

 

いまの本因坊決定戦七番勝負は、

全国有名旅館などが会場となっている

歴代名人のゆかりの地であることも

会場選定の基準となっているからだ

本因坊や挑戦者が対局前日に

墓前で手を合わせることも多い

 

碁打ちは、人によって濃淡があるが

意外な人脈を作っていることがある

 

たとえば

明治の天下名人・秀栄の交友関係は広く

墓石建立に犬養毅や頭山満らが尽力している

 

政治経済と芸事との関係は不思議なもの

長く権力階級の余技としてあった囲碁は

別の世界と強い関係性を持ち続けたのである

 

 

 

▲17世および19世本因坊秀栄

 

▲1938(昭和13)年、半年がかりで打ち継がれた「本因坊秀哉引退碁」

左は、挑戦者決定リーグ戦で優勝し、挑戦者になった次代の旗手、木谷実七段

 



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