【秀栄と秀哉の場合 ~ 孤高の名人たちの苦難】
徳川幕府という大スポンサーを失った後
明治以降の囲碁世界は苦難の連続だった
秀甫の後、大名人となった本因坊秀栄(しゅうえい)
最後の世襲制名人となった本因坊秀哉(しゅうさい)
二人は、ともに並び立つ者なし
一時代を築いた「ひとり名人」であり
後ろ盾のない困難な時代を生きた
特に秀栄は、腕は天下一品だが、
芸術至上主義の狷介さからか
経済的苦労は終生ついて回ったのである
◇
秀栄は若い頃、
秀策なきあとの天下名人・秀甫から
軽くいなされ、手玉に取られていた
が、四十代から尻上がりに充実しはじめ
秀甫没後に「ひとり名人」として君臨した
平明な打ち回しで、軽く勝ってしまう芸は
いまも人気が高い
明治40年に亡くなった秀甫
その後、一人天下となった秀栄
ただひとり、定先の手合を保った秀哉
◇
大正3年、
名人位に就いた秀哉もまた、
地位がヒトをつくるが如くに
次第に名人らしくなってゆく
身長150㌢、体重30㌔余り
背筋を伸ばし盤前で睥睨する姿に
対局相手は強い威圧を感じたという
秀栄とは対照的な打ち回し
戦闘的芸風で激戦に強い
置かせ碁での指導にも長けており
下手ごなしの名手の異名もある
昭和12年、本因坊名跡を
日本棋院に譲り、引退表明
翌13年、病に苦しみつつ
次世代のエース木谷実七段と
半年がかりの空前絶後の対局に臨み
白番5目負けとなった
同15(1940)年1月18日他界
最期の名人の死は
古き良き時代の終わりを意味した
新聞の観戦子を務めた川端康成は
自著「名人」で、その様子を
格調高く克明に綴っている
◇
いまの本因坊決定戦七番勝負は、
全国有名旅館などが会場となっている
歴代名人のゆかりの地であることも
会場選定の基準となっているからだ
本因坊や挑戦者が対局前日に
墓前で手を合わせることも多い
碁打ちは、人によって濃淡があるが
意外な人脈を作っていることがある
たとえば
明治の天下名人・秀栄の交友関係は広く
墓石建立に犬養毅や頭山満らが尽力している
政治経済と芸事との関係は不思議なもの
長く権力階級の余技としてあった囲碁は
別の世界と強い関係性を持ち続けたのである
▲17世および19世本因坊秀栄
▲1938(昭和13)年、半年がかりで打ち継がれた「本因坊秀哉引退碁」
左は、挑戦者決定リーグ戦で優勝し、挑戦者になった次代の旗手、木谷実七段