囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

江戸の実験碁⑤

2019年10月03日 | 【カベ突破道場】

 本因坊秀和の技芸の巻】

 

黒45も三線に押してしっかりした形ですが、一路左下のコスミが筋

白が7の一路下の黒石に上ツケしても、左にハネ出すことができます

白10とカケて2間ビラキの黒を圧迫します

今も、よく出てくる筋です


 

■この碁より少しさかのぼって、実力を備えながらも名人になりそこねた井上因碩との争碁がありました。そのあたりを少し振り返ってみます。

 

■丈和が退隠させられて、本因坊家は当主が13世丈策、跡目が秀和となります。
かつて丈和と名人御所を争った井上家の因碩(幻庵)が、この機を逃さず、公儀に碁所願を提出しました。

 

■本因坊家は異議を申し立て、争碁に持ち込うとしますが、当主の丈策では勝ち目がありません。跡目を立てるという異例の懇願が、条件付きで通ります。
「秀和の先で4局うち、因碩が2勝すれば碁所を許可する」だったといわれています。当代一の実力者・因碩に対し、秀和は格下ですが、実力伯仲とみられるようになっていました。

 

■1840(天保11)年の第1局は、寺社奉行稲葉丹後守邸で行われ、7回の打ち掛け、計9日を要し、秀和の4目勝ち。
途中で2度下血し、体調を崩した因碩は争碁をいったん取り下げます。

 

■その後に2度対局しますが、秀和の先番をついに破れませんでした。
因碩は、名人碁所を断念します。

 

 

「本因坊」小史

本因坊家は、安井・井上・林の囲碁家元四家の筆頭。常に他家の2倍以上の門弟を抱えた。「前聖」の誉れ高い道策、秀策の評価が高まるまで「後聖」と呼ばれた丈和。そして秀和、秀策、秀甫、秀栄ら頂点を極めた高手を輩出した。

昭和になって、二十一世本因坊秀哉が名跡を日本棋院に譲渡し「家元制」から「実力制」に移行。三大棋戦の一つ「本因坊戦」に形を変えて続いている。

 「本因坊」は元々、信長・秀吉・家康に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で、算砂が住職を務めた京都・寂光寺塔頭の名が由来。

当初の江戸拝領地は芝金杉にあったが、寛文7(1667)年に両国へと移った。現在の両国国技館の南に位置し、忠臣蔵の吉良上野介屋敷が近くにあった。

 

 



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