【「戦前戦後を生きてきた」の巻】
■朝からTVで「即位礼正殿の儀」関連番組を見ている。
こうした行事に対し、世界のほとんどの国・地域の代表が参加することは、歴史的に極めて稀なこと、と報じられている。
全世界に初めてTV中継された「エリザベス二世の戴冠式」(1953年)を大きく凌ぐそうである。
■少し気になって、なぜ「10月22日」なのか、を調べた。
ところが、はっきりした理由が分からない。
わたしは勝手に解釈することにした。
「平和ニッポンを世界に改めて強く表明する日」としてふさわしいから、と。
■長期にわたって経済低迷が続く中でも、唯一の平和憲法を持ち、そこそこの軍事力を保持する日本国。参列する国・地域が多数に至るのも、その動向を世界がいまだ注視している表れではあるまいか。
■さらに言えば、戦後天皇が象徴として続けてきた「平和希求の強い意志」を再確認するため、昨日の「10・21国際反戦デー」に連なる日であれば、なおよろしい。そんな勝手解釈も夢想した。
国際反戦デーは1966年10月21日、日本労働組合総評議会(総評)が「ベトナム反戦統一スト」を実施し、同時に全世界の反戦運動団体もベトナム戦争反対を呼びかけたことがきっかけ。
あのサルトルも「世界の労働組合で初めてのベトナム反戦ストだ」と讃えた。
それを契機として日本独自の記念日となったが、最近は新聞に載ることもほどんどなくなった。
わたしの学生時代は、大学敷地内で何事かが起きてきた。
普段、講義をサボっているわたしだったが「この日だけは大学にいかなくちゃ」と思わせる特別な日であった。
◇
■1932(昭和7)年、今から87年前の出来事。
東洋では3月、満州国の建国宣言があった。
西洋では8月、ドイツ総選挙でナチス党が圧勝した。
この辺から、きな臭さが増し、ほどなく世界は過去最大の戦禍に遭遇する。
■母は、昭和7年生まれである。
わたしが小さい頃、防空壕や爆撃の様子、窮乏生活をよく話していた。難しいことを語らずとも、実感的な非戦論を体内に持っていたのだと思う。
母の父(わたしの祖父)は結核で早世し、一家の生活は楽ではなかった。
戦後、教員となり、結婚してからは臨時で家庭科を教えていた。
■3年ほど前から料理が出来なくなった。
このところ、さらに様子が変わり、ケアがより手厚い施設への転居を検討せざるを得なくなった。
妹が、猛烈な手際の良さで候補を探し、絞り込んでくれた。
昨夕、二人で第1候補の施設長に会い、現施設からの転居を相談した。
この施設は、妹の自宅から徒歩数分の距離にあって、今より近くなる。小さいが家族的雰囲気が感じられ、施設長・職員の姿勢も好感が持てた。 新築施設の未契約部屋は、最後の一つだった。
■施設長は
「退屈するのが、最もよくありません」
「無理はさせませんが、もう一度、包丁を握ってもらいたいと思っています」
と言う。
わたしと妹は「お世話になります」と申し入れたのである。