青山伯耆守忠俊(ほうきのかみただとし)は、
徳川二代将軍秀忠から、
土井利勝・酒井忠世とともに
幼君家光の補佐役に命じられた一人である。
だが、新将軍となった家光は、まだ若く、
その頃、舞踊を好み、
自身も舞い手の風俗をまねて、
髪をくしけずる時も鏡二面を置いて
梳(す)き手に注文をつけるのだった。
折しも、
そこへやって来た青山伯耆守、
いきなり、その鏡を取り上げるや、
庭に投げ捨て、
「天下を治める将軍の御身として、
このようなはしたなき所業をなさるとは何ごと!
これこそ乱の基でござりますぞ」
と語気を荒く諫言した。
これに立腹した家光、
「下がりおろう、無礼であるぞ!」
と遠ざけたが、
その後、明君ゆえ、
先の伯耆守の言を もっとも と思い直し、
目通りするよう申し付けた。
だが、彼は、
「私の諫言を もっとも と思われ、
お行儀を直されればよいこと。
また、私が登城すれば、
かえって先の心得違いを証明するようなもの。
これはかえって君のためにはなりませぬ」
と、ついに登城せず、世を終えたという。
(原典:明良洪範)
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まことの忠臣というもの、
こうあるべしというおはなし。
ムサシのことば
「身を浅く思ひ、世を深く思ふ」
を思い起こされる。
古武士の頑固というなかれ。
こうしたココロを持つ
宮仕えは遺物なのか。
平時においても心構えが雲泥の差。
ここまでやるべしとはいわぬ。
ああ、爪の垢を煎じて飲ませたい。
青山忠俊 徳川幕府譜代大名。常陸国江戸崎藩2代藩主、武蔵国岩槻藩主、上総国大多喜藩主。家光への度々の諫言のため、結果として改易となる。家光の側用人になった幸成は弟