1.<客>
富士の高嶺に 降る雪も
京都先斗町に 降る雪も
雪に変りは ないじゃなし
溶けて流れりゃ みな同じ
2.<芸妓>
好きで好きで 大好きで
死ぬ程好きな お方でも
妻と言う字にゃ 勝てやせぬ
泣いて別れた 河原町
お座敷小唄 昭和39(1964)年
詞:不詳
曲:陸奥明
歌:和田弘とマヒナスターズ
【2020年夏 鴨川あたりをそぞろゆく ~ 君の名は。ノスタルジー の巻】
鴨川の東側を南北に走る京阪電車が
地下に隠れてから随分と経つ。
高校の修学旅行で夜の散歩をした時、
右岸(西岸)河川敷から見上げた光景は
電車や南座などの灯りがきらきら輝いて
「都会だなあ」と感心したものだ。
今は電車も駅も全て地下に収納され、
遊歩道もきれいに整備されたのだが、
喧騒とともに情緒も薄れたような気がする。
一方、右岸の骨格はそう変わっていない。
河川敷に座って東山の景色を眺めるという
夕暮れの過ごし方の定番も失われていない。
◇
今回は祇園から河原町、寺町界隈を取り上げたが、
「その間」も、ちょっとだけ触れておきたい。
左岸の道は割と交通量が多い川端通だが、
対岸の右岸には「路地」しかない。
先斗町は歩行者がすれ違うのもやっとの小径。
だがしかし日本で最も有名な細道である。
従兄の案内で下宿探しをした日に
最初に入った喫茶店が「栞(しおり)」。
東窓から鴨川と比叡山が見渡せた。
あれから半世紀近くが経って、
純喫茶も音楽系喫茶(ジャズ等)も
ほぼ姿を消した。
朧げに、記憶の中に存在している。
ぽんとちょう 京都の花柳界の一つ。祇園町と並び称せられる。江戸の寛文十(1670)年に鴨川西岸三条通より四条通一町下る間に、あたらしい町ができて、これを新河原町といい、四条以北を先斗町と呼び、四条以南を西石垣(さいぜき)と呼ぶようになった。東側の鴨川べりにだけ家が建てられ、西側すなわち高瀬川方面に家屋がなかったので先斗(さきばかり)といったのである。なぜポントチョウと読むようになったかは不明だが、安土桃山時代にあった南蛮寺にちなんだのではないかとされる。ポルトガル語で橋という意味である。ここが花街になったのは文化十(1813)年からとされ、毎年5月に演ぜられる鴨川踊は祇園町の都踊とともに古都の華である。
身に染みぬ京の夜寒と賀茂川の
千鳥のこゑと君がなさけと
吉井 勇
▼三条大橋東詰から川端通沿いを四条大橋に向かって歩く。最初に橋が架けられた時期は室町時代といわれる三条大橋。その後、東海道五十三次の西の起点となり、幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。元禄、明治、大正に架け替えがあり、昭和25(1950)年完成の鋼単純H型橋が今の姿
▼左に先斗町歌舞練場。今や春の風物詩となった「鴨川をどり」は五花街で催される“をどり公演”の中でも最多上演回数を誇ってきた。明治5(1872)年に創演
▼出雲阿国(いずもの・おくに、1572年~没年不明)は安土桃山時代、河原で「ややこ踊り」を披露して喝采を浴びた。これを基に「かぶき踊り」を創始した。これがさまざまな変遷をみて現在の歌舞伎に発展した
▼右奥が日本最古の歴史と伝統を持つ劇場「南座」。歌舞伎を中心にした公演を行ってがいる。毎年11月末~12月末に行われる吉例顔見世興行は年の瀬の京都の風物詩。左は大正5年創業の洋食「菊水」
▼四条大橋から北山を望む。橋は最初、永治2(1142)年に勧進により架けられた。現在の橋は洪水被害を受けて昭和17(1942)年に完成した鋼桁橋。北東に出雲阿国の像、南東に南座があり、南西にはウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の装飾建築「北京料理 東華菜館」。北西は江戸前鰻と京懐石の「先斗町 いづもや」