【世話人の視線を、どこに向けるべきか】
父は、昭和3年1月4日生まれ
わたしが東京単身赴任から戻って
まもなく 誤嚥性肺炎のため死去した
十年余り前のことである
囲碁は、彼の大事な趣味のひとつ
棋力は初段程度ではあったが
晩年は仲良しだったNさんと
互いの家を訪ねては
楽しそうに碁を囲んだ
わたしがいま会長を仰せつかっている
地域の同好会に、かつて二人は在籍していた
父は七十代後半、脳梗塞と心筋梗塞により
体力がめっきり落ちてしまった
行き帰りの坂道や碁会の準備撤収作業に
身体が付いていかないことを
嘆いて、こぼすようになった
そして、同好会を退会した
◇
わたしが会長になる直前の昨春、
同好会の会員は98人もいた
手元のデータによると、90代は5人
88歳以上は15人が新年度在籍する、はずだった
だが、多くが退会していったのである
いまは、66人にまで減ってしまった
最初に退会を申し出たTさんは昭和5年生まれ
「皆さんにご迷惑をかけることになるので……」
体力の衰えがその理由だった
当時、副会長だったわたしが
慰留したが、意思は固かった
わたしは、申し訳ない気持ちになった
こんなことでいいのだろうか、と自問した
会員には年齢・体力に関係なく
〝公平〟に義務を課している
三十年の伝統で形成されたルール
だが設営・撤収の当番には体力が要る
九十代も六十代も等しく義務を課する
という会で、果たして良いのだろうか?
昨年4月に会長になったとき
コロナ渦を表向きの理由として
班ごとの設営・撤収当番を廃止し
会員有志で行う、と決意した
役員会では「それはオカシイ」
と反対の声もあがったが
最後は視野が狭いだけの
自己中心論者を押し切った
いま同好会の最高齢は
亡父と同じ昭和3年生まれのIさん
今週中に94歳の誕生日を迎える
自宅と碁会場は500㍍ほどの距離
徒歩でやってきて徒歩で帰宅される
週一回の碁会が愉しみで生き甲斐
新年度も継続会員となるという
わたしが世話人をやっているあいだは
彼のような会員を絶対に退会させない
近場で安価で安全安心に手談を満喫できる
桃源郷の灯を絶やすことは絶対にしない
世話人の義務と責任なんて
大袈裟なものではないけれど
出来ることなんて たかが知れている
どこに目配りするかしかないのだ
ココロのなかで そうつぶやいている
▲父が書いた祖父の言葉
二人とも僧籍を持ち、とうに鬼籍に入っている
「寺」と「碁盤」は、今も昔も、切っても切れない関係にある
どんな集いにも、特定の政治や宗教を持ち込むことをよしとしないが
ひとりの小人の根底にある考え方が自然とにじんでしまうものである
無宗教のわたしでも、ちっぽけながら、それなりの思いがあるにはある
父の碁は、筋の良くないヤキモチ焼きのケンカ碁だったが
「待った」「打ち直し」は絶対にしないキレイな碁でもあった
「棋力は低段」でも、「所作・マナーは高段」のそれである
同好会には、残念なことに、それが「逆転した有段・高段」がまだいる
これをただし、上質の雰囲気を創るのも、世話人のミッションと思っている