▲究極の修羅場「十番碁」で、なんと呉清源(左)が笑みを浮かべて楽しそうに打っている
【「自分のことは後にする『時代遅れ』の男」が作った「木谷道場」のキセキの巻】
■大きなタイトルに恵まれなかったが、
木谷実は間違いなく、20世紀最高レベルの碁打ちである。
トップ棋士としての活躍とともに、
ヒトを育てる名人だったことによる。
碁をご存知ないヒトのためにも、少し書き残しておきたい。
■大棋士・木谷のエピソードは、それこそ無尽蔵にある。
だが、没後まもなく半世紀になろうかという今、
わたしが知らなかった話をかいつまんで紹介する。
ネタ元は「呉清源回想録」である。
■呉は、中国の天才少年として招かれて来日して大成した。
タイトルホルダーを次々と打ち破り、棋界に君臨した絶対王者。
端正な顔立ちであり、碁界は「にわか」の女性ファンも大量獲得した。
その呉が「兄貴のような親しみを抱き続けた存在」が、木谷である。
■呉は当時、いつも木谷に寄り添っていた。
玉突き(ビリヤード)でも、麻雀でも、
木谷は一球、一手に数分を費やす。
誰もが、調子が狂ってしまう。
だが周りは、たいてい後輩か弟弟子なので、我慢して付き合う。
とにかく木谷は、適当なところで妥協することはない。
とことん納得がいくまで、碁と同様に長考を重ねる。
■呉は「なぜ長考するのか?」と、木谷に尋ねた。
木谷の返事。
「初めに直感した手、四つか五つの中で、
最も成立しそうもない手から、
一つ一つ順に読んでいく。
そうすると間違いが少ない」
■木谷の読みの深さは抜群だった。
手が見えるので、秒読みになっても間違えない自信があった。
しかし、ヨミに対する自信は、時として裏目に出ることもある。
読むチカラに溺れ、大局を失うこともあるからである。
ことほど左様に、勝負の世界で生き延びるのは困難を極める。
いずれにしても、
勝ち負けに関係なく、碁風を何度も極端に変化させ、
求道一筋の木谷を「純粋な精神の端的な表れ」という呉。
回顧録「以文会友」のなかで、
木谷について、とりわけ紙数を割いている。
呉は、国籍、戦争、信仰、事故などで、たびたび窮地に陥った。
心のより所としたのは、来日に尽力した師匠で棋界大御所の瀬越憲作、
兄弟子で関西棋院を興した橋本宇太郎、そして木谷だった。
3人との出会いを「大変に運がよく幸せなことだった」と述懐する。
いずれも棋界発展に生涯を捧げた一級の人物である。
木谷実(1909~75年) 神戸市出身。大正期から若手筆頭格として勝ちまくり、怪童丸と呼ばれた。その後、呉清源とともに昭和の第一線で活躍。星打ちを中心とした新布石を二人で提唱してブームを巻き起こした。一方、自宅を「木谷道場」として多くの内弟子を抱え、タイトルホルダーから普及活動中心の地方棋士まで幅広い人材育成に尽力。弟子らは1970~90年代にタイトル戦線を席巻した。大竹英雄名誉碁聖、加藤正夫名誉王座、二十四世本因坊秀芳、武宮正樹九段、小林光一名誉棋聖、二十五世本因坊治勲、小林覚九段など、綺羅星のごとく天界を形成した。
2019年12月16日投稿「1手に5時間考えた」
同17日投稿「『待つ』という修羅道」
同18日投稿「阿修羅のごとく」
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