ブログなんて生易しいもんじゃねぇ…令和。

日々戯言、漫画、映画、音楽…を書きまする。好きなバンド…聖飢魔Ⅱ、マキシマム ザ ホルモン、ザ・冠など

あの震災から12年。チャリンコに水や食料を積んで東灘へ向かったのはそんなに遠い記憶ではない気がする。

2007-01-16 11:42:18 | 爆笑萬國地獄団伝説
当時、ワタシは短大生、京都はO谷短期大学で“地獄団”活動や勉学に励んでいた頃です。

当日、(17日)マンションの9階に住んでいた私は壁際で寝ていましたが壁が自分に向かって体当たりをしてきてバウンドする“夢”だと思いました。

しばらくするとオカンが「あんた!神戸がえらい事なってるで!!!」と起こされTVのニュースでその映像を見た時、何か遠い所の映像の様に思いました。

しかしソレはすぐ近くで起こり、自分も体験した現実だとすぐに実感しました。

試験期間だった私はそのまま京阪電車に乗り(直後だと言うのに特急はノロノロ運転で運行していました)学校に行きましたが学内は静かで何事も無かったかの様に日常でした。

2日程して“地獄団”員だった通称[にーさん(♀)]が東灘の森北町だった事もあり“地獄団”団長“大獄長”が

支援物資を持って向かおう!
偽善でもせえへよりはマシ!と大号令を発し


私ら2人は早朝、桜ノ宮のディスカウントストアに向うと、そこには多くの人が並んでいて、支援しようと言うみんなの“思い”を感じました。

インスタント食品、カセットコンロ、ガスボンベ、ゴミ袋、と色々な日常生活品を
買い西へ向かったのでした。

自転車で。ママチャリで。

国道2号線のノロノロ運転の車を追い越し
途中、西淀川区の寺で給水し(ポリタンクに20Kgやったかな?)自衛隊の車両をも抜かし先を急ぎました。

兵庫県へ入ると左右に広がる建物は歪に立ち並び、崩れ、焦げていたり瓦礫の中を何か探す人、歩道も車道も西へ向かう一つのウネリとなっていました。

しかし更に驚いたのは森北町が結構、山間にある事を知らされ厳しい傾斜を自転車で駆け上がり、時には押したり、足が攣って休憩したりと当時体力があった二人を必要以上に苦しめました。

思いました“地獄団身体衰弱双六ゲイム”はこんな時の為に身体を鍛えていたのかと・・・。

途中、墓地(らしき)ものが在りました。何故らしきかと言うと墓石は一つを除き全て倒され、地面から大きくかき混ぜられたかの様に荒れ果てていました。かろうじて経っている墓石だけで。

到着するとご両親は涙ぐんで喜んでくれました。地獄団のノリで来ましたとは言えず、しかしやって良い事と悪い事で言えば間違いなく[良い事]の筈やし、本人達は大真面目でやってるとは言え、そこはあまりオチャラケず、色々な話を聞き商店街の火災がココまで来るんじゃないかという怖さもあったなど貴重なお話を聞き神戸を後にしたのでした。
置いてあるピアノは壁からせり出しては来ていましたが、幸い山の上のほうでは湧き水もあり持って行った物はご近所さんなどで大いに役立ったと聞いております。

不思議と帰路についての記憶があまり無いのですがクタクタに疲れていたのは間違いないと思います。

今、現在、あんな事が起こらない保障は何処にもないし、現にマグニチュード8以上の地震も(海底とは言え)起こっている。

その日の為にも“地獄団”的心身、肉体の精進は
必要なのデアル。


『12年前の阪神淡路大震災と地獄団と僕ら』でした。



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