宮代学園台自治会

宮代学園台自治会の歴史と誇りを認識し、
つぎの世代へと引き継いでゆく
日々の足あとがこのページに刻まれます。

【文化体育】学園台の歴史①-身代神社

2021年03月31日 | コラム

宮代学園台は昭和50年代に新しく造成された住宅地で、自治会の設立は昭和53年7月である。したがって端的に、宮代学園台の歴史は自治会の歴史であるといえる。ところが、宮代学園台という地域に視野を広げると、私たち住民はその古来からの由緒ある歴史・文化を受け継いでいる。

身代(このしろ)神社

宮代学園台の歴史を紐解く時、まず最初に触れるべきは、須賀村の総鎮守である身代(このしろ)神社が学園台一丁目に鎮座しているという史実であろう。

現在の宮代学園台の区域は、昔の須賀村の中に位置している。江戸時代に須賀村は現在の大字須賀だけではなく、学園台1~3丁目、本田1・2・4・5丁目、百間1丁目の一部もその範囲としていた。現在の行政区との対応では須賀上、須賀下、金剛寺、須賀島、学園台、辰新田という区域が須加村であった。

宮代町命名の由来

昭和30年7月20日に、百間村と須賀村が合併し宮代町が誕生した。宮代町は、百間村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をとって名付けられた

須賀村に身代神社が建てられた縁起

身代神社の創建は、鎌倉時代の仁治3年(1242年)と伝えられている。一方、現時点で明らかになっている須賀村の最も古い記録としては、ほぼ同じ鎌倉時代の寛喜2年(1230年)に記された小山朝政の文献に、須賀という地名が初めて現われている。当時、鎌倉へ至る街道の1つ、奥州道(中つ道)と称される街道が久米原、須賀を通り、古利根川を渡り、高野、幸手、古河方面へと通っていた。平安時代末には、古利根には渡し舟が往来し、鎌倉時代元亨4年(1324年)北条高時、金沢貞顕の発した文献には当時すでに橋が架かっていたという記録がある。

須賀村の村名と身代神社とはさらに古来よりつながっているという説がある(身代山由来記、加藤家文書より)。身代神社の主祭神は、素戔嗚命(スサノオノミコト)であり、スサノオノミコトの本地仏は薬師如来である。一方で出雲の須我神社(すがじんじゃ)はスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した場所に建てられたと伝えられている。その末社が全国にあり須賀神社などと呼ばれている。須賀村に身代神社が建てられた縁起について、この辺りの史実を探求すると興味深い発見があるかもしれない。また、身代神社の脇にある身代池について語られている「おいてけ堀伝承」や「龍神伝承」にも関係する云われがあるかもしれない。

身代神社遺跡

昭和49年に学園台一丁目の身代神社近くで発掘調査が行なわれた。身代(このしろ)神社遺跡と呼ばれるこの遺跡は、古利根川の右岸から100メートルほど西側の埋没台地に立地する遺跡で、縄文時代前期初頭の土坑(どこう)一一基、炉穴(ろけつ)一基など、縄文海進のころの人々の生活の痕跡がこの発掘調査により鮮やかによみがえった

現在の加須、鷲宮、久喜周辺を中心とする加須低地と称される地域は、関東造盆地運動と呼ばれる地殻変動によって、縄文時代以降、数メートルに及ぶ地盤沈下を起こしていることが知られている。その外縁は宮代町、白岡町、菖蒲町周辺に及んでおり、身代神社遺跡周辺も、かつては現在より標高の高い台地であったものが、この地殻変動によって沈降し、古利根川の運んだ沖積土の下に没したものと考えられている。地震速報ニュースで宮代町の震度が周辺の他の地域と比べて大きい値が表示されるのは、この地盤の運動が影響しているだろうか。

文責:福井宏