忘憂之物

ガチコメ的「毒餃子の見分け方」

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」1

めずらしく「しらふ」の社長が話しかけてきた。

「検問やってたで?あそこのな・・・」

やっと捕まったのか!!このオサーンが!!と思ってわくてかして聞けば、そうではないらしい。助かったんだと。ほれほれ。

で、なにをめずらしくも飲んでないのかと思ったら、こんなことを言い出した。

「なんとかして、これをお客さんとかに情報提供できへんか?」

なんと、「店のサービス」の一環として警察当局の「飲酒検問情報」をお客さんにリークせよというのである。

この「酒を提供しただけでも店の責任が問われる」時代に、「ここで飲酒検問やってますよ。酒飲んで運転するなら、このコースは避けて帰ってください!」と情報を漏洩させる店が、それもそんなパチンコ屋が世間から許されるとでも考えているのだろうか。

ンなもん、ひと月持たずにマスコミからハチの巣にされて、シャッターが閉じることは間違いない。そしてさらに、この周辺の検問しているところを社員が探しまわり、見つけたらこっそりと、店に報告でもさせる気だったのであろうか?そんなこと、誰かが「それはさすがですね!発想が素晴らしい!」とでも評価してくれるとでも????あわわ・・・・

人はここまで奢り高ぶると、自分はなんでも許されるとでも考えてしまうのであろう。アイデア自体も信じられん浅薄さである。とても40半ばの経営者と呼ばれる職業の人の発案とは思えん。夏休みの中学生が、面白コントで使いそうなネタの域を超えるものではなかろう。また、そのあまりの非常識さに、私は3秒ほど呆けてしまったのだった。同時に、40過ぎた頭にアルコールが入り込むと、ああなってしまうのかとぞっとした。

本人からして「意表を突く」場所と登場の仕方だったらしい。パトランプも回転せず、なんか、あの、光る棒も持っていなかったらしい。いきなり表れて車を止められたという。そして、

「これからは情報社会や。こうやって飲酒の検問も教えてくれるやつがあるんや。なんでも、役に立つと感じたら、こだわりを捨てて、いいところは何でも利用するという柔軟さが俺にはあるからな。うぇーはっはっは♪」

と豪語するほどご自慢の「飲酒検問サイト」からのメールも減ったという。

警察も懸命に減らそうとしているのだろう。こんな阿呆がいるから大変だ。

「2」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」2

そして、そのコントネタに、私が難色を示すと、

「なんや、なんか、おまえ、地域が・・なんか、情報とか言うとったやないか?」

以前、私が提案したのは、

『顧客にはこの店舗を地域の情報発信源として活用していただきたい。コミュニティの中における店舗の利用方を開拓せねばならんときである。』

ということではあった。だから、そのひとつとして、広告の裏面を利用して「店舗周辺のお店」などを紹介した。小さいお店なんかも「無料」で広告を出せるから好評だった。扱った店舗数もすぐに100店舗を超えて、順番待ちだった。ただ、それでも「パチンコ屋さんのチラシはちょっと・・・」という店も当然にあった。それはあって然るべきであると社員にも話していた。

それでも、地域の活性化に一役買いたい、パチンコという業種を理解してほしいと思い、経費と労力も使ってやってみたのだった。それは、今でも「意義のある仕事だった」と認識している。それが元となり、ブログでの店舗紹介もやってみた。もちろんまた、リメイクも考えている。

しかし、このアル中は、そんなこと理解してもいないのだ。もしくは、パチンコなんかする奴は「酒飲んで車も乗って当たり前」と、相変わらず己の短いモノサシでお客様を計っているのだろう。ったく、罰当たりな阿呆だ。

そして「こういう阿呆」こそ「そういうイエスマン」が好きだから(意味を解したイエスはない。そもそもの意味がないからだ。ただ、そのレベルでのイエスマンが好きなのである。)、私でなければ「通ってしまっている」可能性もふんだんにある。

「3」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」3

「いやぁ、しゃちょう!おみそれしました!わたくし、めからうろこがおちました!やんややんや!今日はしゃちょうのすばらしきアイデアを祝して、北新地でぱぁっといきましょう!そうしましょう!やんややんや!」

と、おだてあげられて、実際に店内のマイクで「飲酒検問案内」が流れる可能性もあったのだ。あわわ・・・そのときのお客様のドン引きの顔と、この阿呆の「どや顔」が浮かぶ。

こんなんが、高いスーツ着て高い車乗って、高い店で飲んで高い料理を喰うことはある。高い家に住み、高い家具をそろえて、高いソファに座る。

いつでも沖縄に行き、いつでも韓国に行き、高い腕時計をつけて、高い靴を履いて、人を安く使うことが経営力だと威張り散らす。私がサラリーマンを18年やって、やっとこ買った50インチのテレビのことを話していたら、そんなものは子供部屋にもあると「横やり自慢」を入れてくる。

長男の部屋でテレビゲームのモニターになっていると笑う。ディーガはいちばん高いやつが付いている。その長男は総額70万円を超える映像装置を具備した自室で「チャングム」を見ているという。我が家の負けだ(笑)。

ところで、この御仁の御子息さんは、今、9歳であるというから、15歳にもなれば350インチほどのテレビを買ってなさるんだろう。

「食事会」を開催してくれる。もちろん店も料理もこの御仁が決める。その店で、我が社の幹部社員が喰っている肉を指差し、

「そのくらいの肉なら、俺の子供は肉じゃないと言う。臭くて喰えんと言うだろう。子供に贅沢させてはアカンなぁ」

と笑うこの御仁の御子息は、私が18年間サラリーマンをやって、やっとこ買った新車と同額の「レーシングカート」が欲しいと強請る。鈴鹿で走らせるらしい。鈴鹿にもよく通っているそうだ。もちろん、高級ホテルを予約してな。9歳で300万円のレーシングカーということは、15歳にもなれば「個人ジェット機」でも買って学校に通うんだろう。

愚痴、続きます(笑

「4」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」4

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現在、経営者のこの御仁は自らのサクセスストーリーを捏造90%で語る。本人の思い込みや勝手な解釈などで構成された、このストーリーの詳細を知っている私の前でも他者に自慢する。私が突っ込むことはないと高をくくっている。それは我が社を貶めることにつながるから、会社を愛する私がまさか、そんなことをするはずがないと本能で感じているのだろうか。翻って、私と二人だけならば、自分はラッキーだっただけだと凹んでみせる。私には通用しないことも知っているのだ。

ただ、傲慢な理屈を引っ込めるには値打ちをこくところはある。突っ込んでも詮無いところで我を張ってみせる。

契約に際して疑問があったようだ。専門的な話はしないが、それはこの業界なら誰でも知っているし、且つ、その業種の経営責任者であれば、知らないということはあり得ないぐらいの話であり、その問題とはまさに「葉書を出すときはポストに入れる」というほど至極当然な話でもあった。しかし、「しゃちょうマン」(今、命名)はこれを知らなかった。

ふんぞり返る「しゃちょうマン」に説明する私と営業マン。

元来、こうなっているもので、更には法によって定められていることだからと説明する。で、結局どうなったか。

「説明不足」である。

そう、こちら側のだ。ここしか落とし所がなかったのだ。こうせねば、もう、「お前は馬鹿だ。」と宣言するしか方法がないのだ。ふたりで「もっと説明していれば、ご理解いただけた。すいませんでした。」という話になったのである。これはいうまでもなく、精一杯、「しゃちょうマン」のプライドを守った方法であった。

「5」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」5

そして、天秤に掛けられているのは「しゃちょうマンのプライド」と「営業マンの売上」と「私のサラリーマン生活」である。これらを放り投げるとき、失うものが大きいことに論は俟たないものの、後々において「その原因」を摘まみあげるに、なんとも情けない話ではないか。

「しゃちょうマン」を凹ませるだけのために、私と営業マンは、それなりに「大変なもの」を賭けねばならんのだ。なんとも不条理な話である。資本主義なんか大嫌いである(笑)。

社長室を出て、ふたりでため息をついたあと、私はこの営業マンに謝罪した。そして、なんと、その営業マンは「もう、買ってくれなくていいです。」と呆れて放り投げてしまった。無理もない。しかし、有能な人だったので、慌てて止めた。

このような「黙っていればバレない阿呆さ加減」は、社交辞令という素晴らしき日本の「建前」という社会文化に後押しされ、周囲は気づいているものの、いつからか本人だけが気づかなくなってしまう。

ユダヤの諺に、

「無知な者が権力と財力を手にすれば、人格が崩壊する」

とある。なんと、この社長室から拝借した2万円もする著作の中にあった。めくった形跡のない遺産は埃をかぶっていることだろう。せめて、私の入院中にパージがめくられ、ノートに写されたことを幸せに思ってくれているかもしれん。

http://www.asahi.com/national/update/0205/TKY200802050174.html
<国内で混入の可能性は? 中毒ギョーザの流通経路>

いや、ちょっと、愚痴を書くと筆が走ってしもうて・・・すまなんだ。

今日はこれが書きたかっただけなのだ。毒餃子だ。すまんすまん。

忘れてくれ(笑

「6」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」6

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<中国製の冷凍ギョーザによる中毒事件で、中国側は「製造サンプルや中国国内の回収品から有機リン系農薬成分のメタミドホスを検出できなかった」と説明した。これに対し、日本の警察当局は中国の製造段階で混入されたとの見方を強めている。千葉県の2件の中毒事件の原因になったギョーザの流通ルートを実際にたどってみると、日本に入ってから混入する可能性はほとんどないことが関係者の話からわかった。メタミドホスはどこで混入したのか――当面の焦点はそこにある。>

朝日に「日本での混入はほとんど考えられない」と言わせたのはさすがである。日本人の「仕事」における律義さ、そして「労働」というものに対する尊敬の念が、反日マスコミの意図的な偏向報道に釘を刺した形だ。

突っ込めなかったのだ。ちゃんとしていたから、ものすごくちゃんとしていたから、ダメ出しができなかったのだ。ざまみろ。報道捨てしょん。

我が業界でも、新台導入の際は「封印」をしているが、これを「冷凍食品」でやってしまう日本人の責任感と、クソ真面目さに乾杯である。ほんとに素晴しい民族性だ。NHKの「はたらくおじさん」のさわやか笑顔を思い出した。日本のお父さんはすごい!

「7」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」7

<千葉市の被害者がギョーザを買った「コープ花見川店」には、12月6、11、17日にそれぞれ1箱ずつ発送された。店の担当者は「箱が変形してつぶれていただけでも日配センターに連絡するようにしている。段ボール箱がぬれたり開いたりしていたら気づいたはずだ」。>

現場レベルでは、厳重な管理体制とこまめなチェック体制はあった。だが、それを台無しにすることはできるのである。そう、その「管理が及ばないところ」が阿呆だからである。

そう。支那である。

産経ははっきりと書いている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080205/crm0802051259030-n1.htm
<出荷前に混入の疑い 警察庁が中国当局に捜査共助要請へ>

ここで「上のほうの阿呆さ加減」は説明するまでもなかろう。すべきことをちゃんとできるのか。甚だ疑問である。「今から検査に行くよ?」と言ってから行くんだから、なにをかいわんや。ンなもんぢゃ、パチンコ屋の内部不正も暴けない。

<中国製ギョーザ中毒事件で警察庁は5日、有機リン系殺虫剤「メタミドホス」が中国国内で出荷前に故意に混入された疑いもあるとして、中国公安当局との捜査共助に向けた調整を開始した。同庁はこの日、千葉、兵庫両県警幹部らを集めた初の合同捜査会議を開催。米田壮刑事局長は「予断を抱くものではないが、日中両国にまたがる問題」との認識を示した。>

いうまでもないが、えらい話である。これが事実ならば(支那で故意に混入させた)全面輸入禁止は当然ながら、支那の国家としての責任も問わねばならん。反日教育が功を奏して「毒入り餃子も愛国無罪」などということになったら、いったいどうする気なのだろう。

その際においても、日本政府は曖昧な返答をして、形だけの抗議で終わり、日本選手団を北京に送りこんで「日中友好!」を支那大陸の中心で叫ばせる気なのだろうから、話にならん阿呆さ加減であるというのだ。その際は是非とも、政府関係者の食事はすべて「支那産の冷凍餃子」にしてもらいたい。日中友好を己の消化器官を使って体現するのだ。

「8」へ

■2008/02/05 (火) ガチコメ的「毒餃子の見分け方」8

<一方で、日本政府が4日から中国に派遣している調査チームにも警察関係者は入っておらず、警察庁は「国内の捜査を尽くし、上陸後に混入された可能性をつぶす必要がある」として、国内での捜査も徹底する。>

「報道捨てしょん」でも、やたら「今までとは中国の姿勢が違う」とか「前向きに協力姿勢を出している」などと、もう、涙ながらに宗主国を庇う姿は哀れでもあるが、そのくせ視聴者には「食べないでください!」などと言う。実に中途半端だ。いい加減に気持ち悪いもんだ。古館と加藤は支那産の食品も擁護せんかい。

「農薬が混入していたとして、何が問題なんでしょう?」

と言わんかい。それと、マクドの捏造演出報道の謝罪も中途半端である。なにも、今更「初心」を見つめんでもいいから、

「我々は生活も浮かれておりましたが、報道も浮かれておりました。さて、次は北京オリンピックです!大いに浮かれ気分でありましょう!!」

と詫びろ。ある意味、感心するわい。

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「上のほう」で、なあなあとやっているにもかかわらず、現場でしっかりと「誇り」と「責任」をもって働いている人がいる。

そういう人たちこそ、国や会社、そして地域や家族を支えているんだろう。

そういう人たちがいるから、この国も国体を保っていられるわけだ。

それは支那をみるまでもなく、当たり前に存在する「この国の世の中」をみればわかる。

そして、その「絶対数」が減少していることも確実なのである。

アメリカ的な「個人の権利」を突き出すミーイズムが脆弱であったことは、もう知れている。そして、それより危険な「超個人」という概念からなる支那的なもの、それは相手の権利を食い千切ってでも「己のみ」を守ろうとする危険な感覚―――――――

簡単に壊れるほうが危険なのだ。いま、目の前で広がる安穏とした生活など、有事の際は一瞬で吹き飛ぶ。それは「毒餃子」で不便になるという呑気なものではない。

国でも会社でも「逃げだす前に」やることがある。その意義が伝播したとき、なにかが少しだけ良くなるだろう。それはゆっくりゆっくり良くなるのかもしれん。

だから、私は日本人の精神に可能性をみるのだ。
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