しかし、まあ、メニューにも問題がったのかもしれんし、ちょっと調子が悪かっただけかもしれない。一度だけで判断するのも申し訳ないじゃないか。だから、今度は妻と一緒に行った。気にはなっていたのだ。この「超大盛り」と書かれたカレーが(1200円)。
さあ、私はココイチの「1300グラムカレー」を制覇した勇者である。黄レンジャーの正式な弟子である。私はスプーンを装備して、いったいどんなギガディンカレーが来るのかとワクテカして待った。ちなみに、妻はどこの洋食屋さんでも「チキンステーキ」である。
はい、超大盛り・・・無愛想なオバハンに運ばれてきた「超大盛り」だったが、先ず、その見た目のがっかり感はどうだ。ぜんぜん「超」ではない。というか、こんなもん、大盛りですら怪しい。い、いや、マテ。私ももう52歳(嘘)、量よりも質、値段やボリュームよりも「味で勝負」という年頃ではないか。文句を言う前に喰ってみようじゃないか。
そう思って口に入れた瞬間、私はてつのかたまりになってなにものもうけつけないのであった。いや、肉の塊になって肉しか受け付けないのではない。妻も「チキンステーキも近所の“シェル”のほうが100倍おいしいネ」と言っているが、私はてつのかたまりになっているからなにものもうけつけないのである。
たいしたことないじゃん!!カレーじゃん!ただのカレーじゃんョ!!
それにメシがやわい(軟い)!!舐めトンのか!!おおぉう!!そもそも、本棚にあるのが「カメレオン12巻」と「キン肉マン7巻」だけってどういうことだ!揃えておけ!!
洋食屋さんの「ライス」は美味くなければならんのだ。どれほどビフカツやエビフライが美味かろうとも、ライスがダメダメならぶち壊しじゃないか――――ん?そういえば、近くにもう一軒・・・そうそう、ここだ。外からでは様子がわからんが、結構な老舗だろう。そういえば、私が子供のころからずっとある。まあ、ともかく、れっつとらい、とらすとみ。
「Aランチ(ビフカツ・エビフライ・ハンバーグ・ハム)をよろしく」
待っている間、私の容赦なく厳しいチェックが入る。先ず、「作っているのは白髪のジジイ」である。よし合格。続いて・・・!!こ、これは「たくわん」・・?セルフサービス、食べ放題の「たくわん」か・・・つまり、これは「メシに自信ありマス」ということでよかろう。それに店は小汚いが、これは掃除が杜撰なのではなく、老朽化による不可抗力に乗じて少しだけサボタージュが感じられるという、あの感じである。合格。
そう、厨房や客席は綺麗なのだが、設備的なところに手を入れないあの感じだ。これは高得点だぞ・・・本棚には・・ま、まさか!これは「あいつとララバイ」が全巻揃っているのか・・?これはボーナスポイントが付くぞ・・・もし、これで「バリバリ伝説」まであった日にゃ、いったい、どうなるのか・・・私は「かぼちゃワイン」を探しながら、爆発寸前の期待感を抑えるのに必死だった。
おまちどうさん―――おおぅ!!これはもう、安モンの外人がみたら「おーふじやーま!げいしゃすきやきー!」とテンションを上げそうな感じのエビフライであろう!そそり立っている!!エビが反り上がって天空に向かって頭を突き出している!!これはもう、土曜日に店に来てくれた「岡山の同志」が連れてきた十三の29歳の彼のような感じか!初対面ながら下ネタを振ってくるあの感じ!!「ニンニク喰ったら朝まですごいっす」と言いつつ、私がとぼけて「なにが?」と問うも、右手で「ほら、20代30代・・・っていう・・」というセクハラを躊躇しない彼のようなアレである。毛唐の喰い過ぎである。そら、ショットバーに泊るわけである。(スピリタスを飲ませたww)
・・・・そ、それに美味いじゃないか・・・出ました星三つ。
やはりコメだな。稲作万歳という今日この頃、1万年もスローライフしてきた縄文時代が惜しいと思うわけですが、そのあと始まる弥生時代って「弥生1丁目」から土器が見つかったからだとはしらなんだ。そこから富める者と貧しき者が出現するわけですな、格差社会は稲作と共に・・これ必然。
もちろん、当時は一家総出で稲を作る。現代のような母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃんの、いわゆる「3ちゃん農業」ではなく、家族みんなでコメを作る。子供が出来ても育児休暇などありませぬ、子供は家族で育てますね、弥生人。そして、そろそろお気づきかと思うが、この「弥生1丁目」とはどこにあるかと探してみれば、なんとまあ、東京都文京区の弥生1丁目だったりするんですなもし。
http://www.asahi.com/politics/update/0311/TKY201003110193.html
<東京・文京区長が育休取得へ 長男誕生で4月に2週間>
会見で「子供と一緒にいる時間が欲しい」と言い「やっとできた子供だから嬉しい」などと抜かす。ぜんぶ当たり前の話であるし、子供なんぞ「やっと」出来なくとも可愛いもんだろ。普通に「あれ?そうなの?」でも、生まれてくれば可愛いもんだ。もっと言えば「まじで?うわぁぁあぁぁああ~~どうしよう、あわわ・・」でも、結局産んで育てるとなれば、その可愛さは同じである。「やっと」かどうかは関係なく、普通の親は子供を必死で育てるものだ。この弁当メガネ(弁当箱にメガネをかけたような顔のこと)は、そんなことも知らないのだろうか。馬鹿みたいに威張りながら「子供が可愛いから育児休暇を取ります!」と、わざわざ言う珍奇はこの支那メガネ(支那人がメガネかけたような顔のこと)だけだが、生まれてきた子供が可愛いのはどの親でも、どのメガネでも同じだと誰か教えてやれ。
んで、やはり、テレビでも気味悪く持ち上げている。「会社にもよりますね」とか「周囲の協力が不可欠ですね」などと困って見せるも、基本的には「良いことだ」というスタンスで統一させている。ひとりも「馬鹿じゃないのか?」というコメントを出す者はいない。
これは私の主観・・・・だけじゃないと思うが、これは阿呆極まりない話である。仕事に穴を開けてまで餓鬼の面倒をみる男は最低である。もちろん、嫁が病気をしたり、嫁が逃げたり(笑)すれば別の話、それは例外だ。そのときは必死にフォローするのが当然の義務、誰に言われるまでもなくやるだけの話だ。男も女も関係ない、家族の一員として「空いたポジション」をカバーするのは当然のことである。別に威張ることでもない。
それに気に入らんのが、こんな言葉だ。
「仕事はいつでもできますが、子育ては今しかできませんから」
阿呆である。完全なる事実誤認である。「いつでもある」仕事なんてないし、世話することだけが育児ではないし、コミュニケーションだけが子育てではない。阿呆かというのだ。
ついにここまで堕した阿呆が世の中に出現し始めている。いや、堂々と公供の場で威張っている。これを当然の権利だと胸を張る根拠は、要するに男女同権という悪平等からなる腐敗した思想である。フェミニズムの悪用である。「性差」という、あって然るべき差異まで否定する気の狂い方は、日本の国柄を破壊せしめんとする売国法案のひとつ、選択制夫婦別姓法案を通すための潤滑油に過ぎない。安易に過ぎる愚策だが、本当に日本人はマスメディアから舐められているのだとわかる。
たまの休日、嫁さんに代わって子守をしてもいいだろう。その間、嫁さんには、久しぶりに友達と買い物でもしておいでと言ってあげればよい。夜中に泣く赤子に粉ミルクを作って飲ませることもすればいい。夜泣きする我が子を抱いて散歩するのもよかろう。おむつなんかも進んで替えるべきである。なんの、どっこい、それくらい私でも出来た。そして、普通、人はこれを「幸せ」だと感じる。男も女もない。夫も妻もない。
しかし、である。己の役割、すなわち「本分」を横に置いてまでする必要は全くない。それにこの区長は2週間の休日だというが、おまいの子は栽培マンなのか。2週間ほどで育児が終わるはずもない。つまり、この区長の言う通り「子供と過ごしたい」というだけの話だとわかる。まさに「やっと結婚できたんです。嬉しくてもう、新婚休暇を取るんです」というほど馬鹿げているのだ。いつでもだれでも結婚すれば、周囲が祝ってくれるのも珍しくなければ、特別休暇で新婚旅行に行くことも珍しくない。さっさと行ってとっとと帰り、また、せっせと働けばよいだけのことである。
テレビも育児休暇を取って子供の相手をするダメ男を嬉しそうに映しているが、マスコミはエプロンつけて不器用に料理する男を、どうやってでも「良き夫」であり「良き父」であるとしたいのかしらんが、そんなもん、めずらしくとも何ともないと知れ。出来るときにはやっているはずだ。「いや、そんなことない、うちの旦那は絶対しない」と言い返す女性がいたら御愁傷様だ。私もするし、私のツレでもする。虹の旦那衆もしているだろう。
学生時代はパンチパーマで教師を殴って入院させたツレは、いま、休日になれば嫁にパンケーキを焼くことを楽しみとしている。同じく学生時代、ドライバー振り回して暴れまくり、気が狂っていたと思しきツレは、いま、嫁さんのために美味しいパスタを研究中だ。「冷徹マシーン」と思しき冷酷なヤンキーだったツレは、いま、娘が熱を出しただけで胃がおかしくなる。すなわち、亭主関白もフェミニストも、右も左もヘチマもなく、惚れた女と一緒に暮すんだから、そんなことは言われなくともするのであり、したいと思うのである。
例えが適しているかどうかわからんが、わかりやすくすると、だ。例えば野球のバッテリーをしてキャッチャーの事を「女房役」と称することがある。漫才師が相方を「嫁さんみたいなもの」と言う時もある。つまり、夫婦のようなもの、それほど通じ合っているという例えの事だ。キャッチャーが「なぜ、キャッチャーだけがボールを受けてばかりいなきゃダメなんだ。たまには2週間くらい投げさせろ」と言うはずない。漫才でのツッコミが「たまには俺にもボケさせろ」とは言わないのである。
ピッチャーはキャッチャーがいるからボールを投げることが出来る。サインも出してくれるから、自分は投球に専念できる。キャッチャーはピッチャーが指示通り投げてくれるから試合を組み立てられる。打者に集中できる。3塁にランナーがいてキャッチャーがボールをそらせば、ピッチャーはホームベースを守りに走る。ファーストゴロではピッチャーがファーストべースを守りに走ることを「やります!」とは言わない。それらは共に「当たり前のこと」だからである。
投げてくれるから受けられる。受けてくれるから投げられるのである。それもこれも「チームが勝つ」ためであり、お互いの成果を出すためである。これを相互依存という。
つまり、旦那は嫁はんがいないと旦那ではない。妻は夫がいないと妻ではいられない。
この区長は「マウンドを空けてキャッチャーをする」と言っているに等しい。それを率先してやるのだと鼻の穴をふくらませる。区長様の事だ、きっと「点差」が開いているのだろう。余裕なわけだ。これを同点の場面で、あるいは負けている場面で「ひとりしかいない」大黒柱、家庭のエースが「マウンド空けてミットをつける」と言い出すことがあろうか。すなわち、貯金もままならぬ一般サラリーマンの家庭において、旦那が「育児休暇を取る」と言い出したら、マトモな嫁はんならば「家のことはいいから、ともかく、おまいは外で金を稼いで来い」と言うだろう。そんな頭のおかしいことを言うなと叱られることだろう。それでもキャッチャーを楽しんで、嗚呼ぁ、楽しかった有意義だったとマウンドに戻る時、この区長様のように区民の皆様に選んでもらったわけではない庶民は、もう、とっくにそのマウンドには他人が立って投球練習を始めていることだろう。それが常識、それが世の中の常ではないか。
総務省によると東京都の完全失業率は0.5ポイント増加の3.9%だ。「仕事はいつでもできる」など、よくぞまあ、都の区長が言えるものだと感心する。マスコミも、この区長が「我が意を得たり」なので批判はしない。よいしょよいしょと持ち上げる。
私がサラリーマンだったときも、偉そうに目をキラキラさせて「家庭と仕事なら家庭を選びます!」とか「子供と一緒に過ごす時間が欲しいんです!」などと抜かす奴ほど、休みの日には朝からパチンコ屋に並ぶ。コーヒーワゴンの姉ちゃんや新人の女性アルバイトに目をギラつかせる、というのを散々見てきた。虹のメンバーは知っておられるだろうが、仕事と私に振り回される工作員ほど、希少な休みの日には家族でどこかに行ったり、少ない休憩時間を利用して子供とコミュニケーションとったりしていた。そんなもんだ。
サラリーマン時代ということで思い出したが、あの社長マンは毎日、子供と朝飯を喰うと自慢していたし、毎日が休みのようなもんだから、そらもう、あちこちに遊びに連れて行っていた。家族旅行も年に数回は必ずしていた。それも沖縄だ北海道だ、グアムだハワイだ、済州島だソウルだと。その御仁がよく、月に何度も家に帰れない状態だった私に「家庭サービスも仕事のうち」だと説教垂れてきたものだ。己の労働管理の杜撰さを棚に上げて「そんなことじゃ家庭が崩壊するぞ」と馬鹿にされたものだ。
しかし、結局、娘とも倅とも月に何度かしらのコミュニケーションしか取れない私に「子育て」を尋ねることがあった。勉強もさることながら、その「子供らしさの欠如」に困惑していたようだった。この御仁、口は偉そうながらも悩んでいたのだ。
小学5年生の長男が、母親に向かって「おい、こら」と話しかけるらしい。それも社長マンがいない時だ。社長マンには「お父さん、帰ってられたんですか?」と敬語を使うらしい。で、それでもこの御仁は言うのだ。「言葉づかいは徹底的にやったからな」と。私はもう、この5年生は病んでいると確信する。10歳に満たぬ少年が、こいつには偉そうにしてよいと、こいつだけは抑えておけば大丈夫を使い分けているのである。
そして、
「子供、どうすれば勉強するんや?」
と聞かれることも少なくなかった。以前は見下して馬鹿にしていたはずだが、ある程度の結果が出ると恥も外聞もなく「おい、それを教えろ」として恥じない、その御仁の姿勢こそ「子育て」には有害だと思っている。私は先ず、民族教育を止めさせて―――口出す前にお前が2倍やれ―――と言いたいのを我慢して、ヤレヤレいうと反発しますもんね、と一般論を述べるに留めた。
弥生時代――――父親が教えたのはきっと「学ぶ内容」ではなく「学ぶ姿勢」だったのではなかろうか。朝日が昇った瞬間から、人はどうやって生まれて、どうやって生きていくのか、そして、どうやって死んでいくべきなのかをみせた(伝えた)のではなかろうか。来る日も来る日も一緒に体験する、今日も明日も共に生きることによって説明不要の説得力を持っていたのではなかろうか。少なくとも、その前、1万年続いた縄文時代に言葉はまだ無い。まだ「カマド」もないから、いわゆる「コミュニケーション」というものは、自然に日常生活の中に溶け込んでいるものであったのではないかと思う。
そしてその究極、結晶化された「学ぶ姿勢」とは「役割を果たす」ということだったかもしれない。そして、父親の役割とは「家族を護る」や「家族を喰わせる」などであり、決して「育児休暇を取る」ではなかったと弥生人は知っていたのではないか。
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久代千代太郎
な
岡山のオグラ
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