模倣犯。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080618-OYT1T00385.htm
<小学校に秋葉原事件ほのめかす電話、39歳男を逮捕…名古屋>
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00135026.html
<携帯掲示板に「秋葉原みたいなのを起こしてやる」と殺人予告 21歳無職男を逮捕>
少し前には、大阪ミナミで「秋葉原のようなことをしたい」と抜かすおっさんが、カッター持ってフラフラ歩き、道端で寝っ転がっているところを警察に逮捕されたというニュースもあった。
惜しかった。私が見つければ、ものすごくレトロな「プロレス技」・・・例えば、アメリカンジャブで弱らせてから、ローリングクレイドルかなんかでグルグル回し、渾身のテキサスクローバホールドで締め上げながら、携帯電話の写真に向かってテキサスブロンコVサインで♪ぴーすぴーす!!♪ぼーとぴーす!!と警察が来るまで歩行者サービスに努めたというのに・・・となりを見れば「バー・タナカ」のマスターに酷似しているドリーファンクJrが・・!!エルボースマッシュからダブルアームスープレックスぅ!そして、なぜかハイキックぅ!!平成の「虹のファンクス」誕生!!
・・・・。
で、少し前だが、ついに、
http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806160252.html
<ダガーナイフ、製造・販売など自粛要請 経産省と警察庁>
ダガ―ナイフが取り締まられるらしい(18禁)。いや、まぁ、なんというか、ならば、私のビガーパンツも取り締まる対象のアレか!バタフライパンツも自粛しているというのに!私の大量破壊兵器も規制対象かぁぁ!!・・・と憤る前に、だ。
なんで、トラックはええのん?(´・ω・`)y~~~
という素朴な疑問が浮かび上がるではないか。で、たしかあのキチガイは25歳だったはずだが・・?ならば「18禁」も意味がないしな。ともかく、バカバカしい。
それこそ、カッターナイフでもアイスピックでも人なら殺せるだろう。灰皿でもビール瓶でもだ。だから「何かの所為」にしても始まらんとあれほど・・・
「そんな漫画やゲームから出てきたような“武器”を、おもちゃ感覚で若者に売りさばくのはけしからん!」
とか、
「この社会全体が生み出した闇だ!夢も希望もない社会にした大人は反省せねばならない!」
などと抜かしている人は正気でしか?ああぁ?正気でしか?
「2」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」2
-
「責任」と「原因」は峻別して考えねばならん。「責任」は無論、このキチガイ本人にある。そして、往々にしてその「原因」もその本人にあるのだ。
私も何年か前に読んだ「さまよう刃」という本がベストセラーになっている。「蟹工船」(笑)よりも売れているらしい。ざっと言うと、阿呆餓鬼3人組が退屈しのぎに「女を襲う計画」を立てる。リーダー格の餓鬼は何度かレイプなどの経験があり、とても阿呆である。そして、主人公である父親の心配の通りの悲劇が起こってしまう。夏祭りの帰り道、浴衣を着た娘は、後ろからきたバイクに接触して怪我をする。そして、その後に車が来る。
病院まで連れて行きますよと、車に乗せられるわけだ。もちろん、バイクも車の二人もグルである。そして拉致されて監禁され、繰り返し繰り返しレイプの被害に遭う。
畜生道に堕ちた腐れ外道どもはエスカレートする。その最低の行為をビデオに録り、暴行は激しくなる。でたらめに覚醒剤を打たれた娘は非業の死を迎える。
そして、娘を探す父は半ば偶然にもそのビデオを見てしまう。その現場で・・・
悪鬼と化した父親の復讐が始まった・・・。
-
この先は是非とも読んでもらいたいが、つまり、この娘さんの悲劇の「原因」を「夏祭りに行って遅くまで遊んだから」とするに、そこは人間性を問われると思う。一部の「自己責任!」と騒ぐ「ほしゅ?」以外の人は、決して、そうは思わないだろう。
この外道どもが鬼畜なだけであり、襲われた娘さんは気の毒というほかない。「責任」も「原因」もあるわけがない。ここまでは普通に理解できる。しかし、この外道どもに対して「責任」は当然としても「原因はない」とする理論がわからない。
たしかに、この小説にも出てくるこの外道どもにも親がいなかったり、気が弱かったりする奴が出てくる。しかも、未成年だというから、この被害者の父親は「責任」すら問えないという不条理も受け止めねばならんわけだ。だから実力行使に出るのだがな。
今回の「秋葉原事件」においてもそのような風潮が、この25歳のキチガイ不細工の「責任」はさすがに認めざるを得ないものの、しかしその「原因」となれば「社会」や「環境」、ましてや「ナイフ」にまでそれは及ぶというから、わけがわからないというのだ。
「3」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」3
もっと、この25歳の素人童貞不細工、彼女いない歴=人生というキチガイを晒してやればいいのだ。「こんな奴だから、こんなことするんだ」ということを報道すればいい。文句ばっかりで、己を高みにおいて、最終的には、たかだかチンケな挫折の連続から「開き直る」という愚を正当化するような奴だから、最後には「こんなに人様に迷惑をかけて」捕まるんだということをもっと研究して世間に晒すべきであると思う。
誰に配慮しているのか知らんが、マスコミの影響力というものがあるならば、それこそが「抑止力」となるのではないのか。こんな不細工クズ、徹底的に批判してしまえばいいのだ。こいつは「ワイドショーを独占したい」とほざいていたことも忘れるな。「社会全体の問題ですね」と捉えることが、こいつの慰めになると気づかんのか。こいつの手前勝手な「僕の所為ぢゃないよ?僕は不細工だったから幸せになれないんだよ?」とするチンケな言い分を正当化してしまっていると気づかんか。
「ワイドショーで更に世間から不細工と言われたい。もっとキモイと騒がれたい!」
というようなツワモノならば、立派なお笑い芸人になるだろう。間違っても「人様に迷惑をかけよう」とは思いもつかんことだろう。
「よし!僕のこの不細工で、みんなを笑わせてやる!不細工な男の夢と希望になってやる!」
というほどのポジティブ思考ならば、女くらい放っておいてもできるだろうしな。
そんな奴はいくらでもいるぞ?ほら、そこと・・・そこにも・・!!ここにも!
ま、まあ、ともかく、そのようなマスメディアの風潮は、つまり、この不細工女ナシ★萌え野郎に、
意志表示させてしまっているのである。
だから、あとからあとから同じようなのが出てくるのだ。所詮はマスコミ、この期に及んでも「飯のタネ」くらいにしか考えていないのかもしれんが、もう、そろそろ、商売のやり方を変えたほうがいいのかもしれんぞ?
「4」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」4
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080619-OYT1T00379.htm?from=main2
<自殺者、10年連続で3万人超…30歳代は過去最多>
10年連続で3万人・・・・?つ、つまり、30万人である!!
「南京あるある大虐殺」と同じ数ではないか!!記念館でも建てるかおい?
<お年寄りの「孤独感」を動機にした自殺のほか、働き盛りを中心にした「仕事疲れ」の自殺も目立ち、高齢者とともに、社会的・経済的に負担が増す世代が追い詰められている現状が浮き彫りになった。>
実は、ここだけの話だが・・・
絶対に言うなよ?
秘密であるぞ?
おそらく・・・というか、たぶん・・・というか、
真意は定かでないのだが・・・
どうやら私も死ぬらしい。
確実なことはわからんが、なにやら「いずれ死ぬ」ことになっているという。恐ろしい話である。はっきり言って死ぬのは嫌だ。というか、自分だけは大丈夫と思っていた節がある。限りある命。貴重な命。大切にしよう。
大切に・・・
使おう。
ひとりにひとつずつ、たいせつないのちぃ~♪
疲れたくらいで死ぬな。疲れたら安めとあれほど・・・
「5」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」5
どこぞで「死刑反対!」と叫んでいる無法者は、是非とも「自殺するな!」とも声をあげてもらいたい。その運動エネルギーを「10年連続年間3万人」の改善に向けてもらいたい。でなきゃ、その「意図」がバレるぞ?ああぁ?もう、バレてるってか?すまん。
-
ところで、私は将棋が好きである(弱いけど)。だから、私と同じ年の羽生名人も好きだ。あの「伝説の5二銀」!!この話だけで酒が飲める。つまり、
逆転の発想である。
しかし、人生、何度も「鬼手(※相手の意表を突く、型破りな手)」は指せん。
そして、私には想像できんが「死ぬくらい辛いとき」こそ「鬼手」があると思う。「捨て身」である。常識で測れないところに思考は飛ぶ。常識では無理なことも可能だ。
で、それが「無差別殺人」では詮無い話ではないか。将棋で言うなら、いきなり将棋盤を振り上げて対戦相手に襲いかかり、駒を投げ散らかし、解説者や関係者に襲いかかったのと同じだ。そんなもん「意表を突く」どころか、気が狂っただけではないか。
で、こんなキチガイは射殺するか、とっとと捕まえて死刑にすればいいのだが、問題はこの「10年連続3万人」である。死にやがるわけだ。
「6」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」6
<昨年の自殺者を年齢別でみると、60歳以上が一昨年比8・9%増の1万2107人と最も多く、全体の36・6%に上った。50歳代は2・8%減の7046人だったが、40歳代は1・8%増の5096人、30歳代は6%増の4767人で、働き盛りの30~40歳代だけで全体の29・8%を占めた。20歳代は2・5%減の3309人、19歳以下は12%減の548人で、小学生は8人、中学生は51人、高校生は215人だった。
男女別では男が2万3478人、女が9615人。>
「死んだほうが楽」
コレは否定しない。たしかに、そのほうが楽な場合も想像できる。
ただ、それは、
楽をするために生きている
という前提からなる論理であろう。
ならば、私は反射的に「それは間違い」であると断ずる。
なぜというに、その前提条件であるならば、産まれた人間はすべからく「その場で死ぬ」ことが至高の「楽」であるからだ。「生きていく」ということは、当然ながら「苦」を包含した本能的行為であり、その先にあるのは言うまでもなく、
幸福になること
である。
コレを間違えることがしばしばあろう。つまり、
幸福であること
との差異がわからない状態である。
人それぞれ「幸福」の条件は違う。更には「その場そのとき」という環境など、または年齢や精神的成熟度も加味すれば、その「条件」とは無限の広がりを見せる。いずれにせよ、人生の目的とは「幸福になること」であり、すなわち、「幸福でないから」といって自殺するのは本末転倒、まったくの無意味であると言わざるを得ないのである。
「7」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」7
人は「今より、よい状況」をつくろうとしながら生きている。客観的に「もう、十分だろう」と思っても、それその人からすれば「まだ、よくなる」と思いながら生きているわけだ。それは「その状態を維持」させようとすることかもしれない。少なからず降りかかる問題を解決していくことかもしれない。しかし、どれほど優れていようが、どれほど経済的に潤っていようが、それこそ秋葉原のキチガイ不細工とは違い、容姿端麗でモテモテであろうがだ、我々は既に絶対に避けて通れない「苦」を平等に与えられているではないか。
つまり、それが「死」である。
「死」がすべての帳尻を合わせる。その人の全てを清算する。無残な死も安楽な死も、「死」という結果は同義となる。「死」に意味をつけるのは、まだ死んでいない人間、つまり、今、生きている人間なのだ。
「死」から逆に辿ってみる。「逆転の法則」だ。
今、死のうとしている人は、そこが終着点であると胸を張って言えるだろうか。(観念的に)ずっと先にあるものではないのだろうか。私のように「自分だけは大丈夫なんぢゃないか?」と思うほどに、「死」とはまだ見えない先に設定しているのではないか?
「死にたいほど辛い」という状況は、やることが山積している状態、つまり、逆だ。生きねばならぬ状況なのである。もう、絶望するほどの「不幸」とやらは、人間が「幸福になるために活動する」生き物であるとき、その絶望は大いなるモチベーションに転化させることができる。「必ず、この難題を解決できる時が来る」と希望を抱いて生きることは、人間にとって標準装備された思考システムなのである。ただ―――――
「言うは易し」
体はボロボロ、借金は横浜ベイスターズも逃げ出すくらいある。
仕事は面白くないし、というか、ない。
彼女(彼氏)ができないどころか、友人もいない。
学校に行くのが苦痛すぎる。なんで、自分だけが・・・
こんな状況で、そんなふうに考えることができたら苦労しないわい!という声が聞こえてきたよ、あはは♪
「言うは易し」
その通りだ。人生そんなに甘くない。
「8」へ
■2008/06/19 (木) ガチコメ的「死にそうな話」8
ただ―――――
ただ、な。
私ならば絶対に作れない硫化水素を作って死んだり、私はもうガクブルになるような高いところからスーパーマンのように飛んで死んだり、私の体重ならば天井が抜けて無理かなと思うが首を吊って死んだり、邪魔くさいのに練炭持ち込んで車で死んだり、あろうことか、灯油かぶって火をつけて死んだりするファイヤーマンよ。
そんな「力」が残っているなら、死ぬ前に是非やってもらいたいことがある。
それはな、
その対象(死にたいと思わせている真因)に向って、天を劈く猛声でな、
ありがとう!
と叫んでから死んでくれ。
それでも「辛いから死ぬ」という大いなる矛盾に気づかないなら死んだほうが良い。
自分を「死にまで追いやった」相手に謝辞を述べる矛盾に異を唱えるならば、「辛いけれども幸せになるために生きねばならん」という矛盾に対してはどう得心するつもりなのか。
「生きる」とは「幸せな状態が保障されている状態」であるはずがない。往々にして「そうではない状態」が常であるのだ。だからこそ、この「命」を消費しながら「生きていく」のである。少なくとも私はそう思って生きている。その「辛さ」から解放してくれた相手に謝辞を述べるのと、その「辛さ」を放棄することは同じだというのだ。
そして、いつかその「幸せ」とは他者性を帯びてくる。例えば、
「愛する人の幸せが自分の幸せ」
と昇華する。
そうなれば強いぞ?絶対に死なんし、「その時」にはあっさりと死ぬ。
-
ともかく、死ぬまで生きろ。
かく言う私は忙しくて死ぬヒマもない。(さるさる書くヒマはある)
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