あの有名な「泣いて馬謖を斬る」。諸葛亮は「街亭の戦い」にて、部下の馬謖が指示に背いて大敗し、多くの兵を失わせたことから斬罪に処した。可愛がっていた部下だったが、組織の規律を順守すべく「泣きながら」これを斬った、と正史にある。
しかし、小説「三国志演義」での解釈は異なっていて、諸葛亮は劉備の「馬謖を重用するな」という忠告を守らなかったことを悔やみ、自省の念から泣いていたのだとされる。
個人的にはこちらのほうがしっくりくるが、日本の野党第一党、その代表は泣きもしないし、斬り捨てもしない。社会常識の外れた「ぼっちくん」と同じく、世間との乖離に気づかないまま、今日も岩盤支持層数%を死守することしか頭にない。国民の多くはその非常識、幼稚で傲慢、勝手な言い分に眉を顰める。なぜに「すいませんでした」と謝罪して処分しないのか、と本気で心配になってくる。世間や湯呑を舐めてよいことはなにもない。
また、次々と出てくる同じ穴のナントカに辟易する。国会中継なども予算委員会だけでなく、各種委員会のネット配信などをチェックしても、今回の「ぼっちくん」と同じレベルの盆暗が意気軒高に堂々と、恥ずかしげもなく、無駄に無礼なだけの言動を振り回して国会を荒らす姿に絶望感すら覚える。
マスコミや政治家だけでもなく、大学教授も非常識なのが後を絶たない。最近では法政大学の島田某か。念のために正確に引用しておくと、この極左教授はネット番組の「エアレボリューション」とやらの中で
「こんなことを言うと、また顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないけど、いままで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて『暗殺が成功して良かったな』と。まあそれしか言えない」
と言って、ゲストの青木理をニヤニヤさせていた。普通「暗殺が成功してよかった」は暗殺犯か、それをさせた犯行グループの人間しか言わない。また、これは例え話でも冗談でもなんでもなく、暗殺は本当にあった。安倍さんがどうのではなく、現実に人が殺されていることをして「良かった」と言える人間は正常ではない。つまり、法政大学は「正常ではない人間」が教授をやっている。そこで学ぶ学生が正常であることを願うが、この不正常の教授は続けて
「(自民党は)うまいこと、この暗殺による被害者側の立場に立った」「(立憲民主党の元参院議員)有田(芳生)さん、頑張ってほしいですけどね」「(自民党は)『亡くなった安倍元首相の魂を受け継ぎ』みたいなことを言っている。『弔い合戦』に持ち込んだ者が何か〝坊主丸儲け〟した感じが否めない」
と衆院山口4区補選に触れる。この極左教授がゲスでクズなのは言うまでもないが、このネット番組だけでもなく、今更ながら、地上波のテレビ番組なども相変わらずでもある。
もちろん、もうひと月以上、落としどころもない「ぼっちくん」の件は報じないが、この極左教授の暴言の翌日、岸田首相が和歌山県で「爆発物」を投げつけられると、さっそくにも各種ワイドショーで「犯人の生い立ち」をストーリー仕立てに紹介し、テロは許されませんが――、暴力を肯定するつもりはないですが――の枕の後に「しかし・なぜ」を挟んでから「なにが犯人を追い詰めたのか」とまだやる。テロ実行犯は嬉しくて悶える。悩んだけれど、思い切ってやってよかった、と達成感を味わう瞬間だろう。
ボストンマラソンのテロ事件で使われた「圧力鍋爆弾」も10年前、「モーニングバード」で「レシピ」を紹介。材料はこれとこれです、と現物を用意して、ここに行けばこれが買えます、ここにはこれも使えます、と所太郎リポーターが熱心にやっていた。メモも取らずに見ていても大丈夫。わからなければ「ネットで検索すれば出てきます」と親切丁寧だったが、今回の鉄パイプ爆弾も番組内で「作り方」をやっていたとか。停波しない理由が思いつかない。
最近、よく考える。いったい、コイツラはなんなのか。
こんな連中、いわゆる「リベラル」でもない。いや、本人らはそう強弁するし、そのつもりで書いたり話したりしているのだろうが、どうもしっくりこない。四半世紀以上前になるが、小林よしのりはその差異を「左翼とサヨク」に峻別した。いま思い出しても、これが最もわかりやすく言い表しているかもしれない。左翼でもない。「極左」でもない。サヨクだ。
それに筋金入りの共産主義者は阿呆じゃやれない。ちゃんと議論できるし、うっかりするとオルグされる説得力を持つ。だから世界には共産主義が蔓延して、いまでも酷い目に遭っている国や地域がある。
しかしながら、日本国内の「サヨク」は違う。先ず、論戦でも選挙でも勝てない。イデオロギーの前に知性が低い。知識がない。粗野で粗暴で、平然と虚偽を述べて恥も知らない。「喧嘩を売るとはいい度胸だ」とか、まるで餓鬼の戯言レベルを公然とやる。渋谷の交差点で花火をしたり、布団敷いて寝たりしても、ほんの一部の「支持者」が盛り上がるように、至近距離にいる「仲間」だけは盛り上がるかもしれないが、その他大勢の真面な人らは距離を置くし、気の振れたような候補者に投票したりもしない。
戦後、少しずつ日本は壊されてきた。戦争に負けるということはそういうことか、と納得しそうにもなるが、いま、その「効果」は完全に可視化されて、いわゆるノンポリの人らも無関係ではないと気付き始めている。
例えば教育もそうだ。休みが増えて教科書が薄くなっても、体罰や躾などが一絡げにされて全否定されても、年端のいかない子供らに異常に過ぎる性教育を施されても、女装したおっさんが男女の区別なんか気にしなくていい、と教えても、国歌や国旗を蔑ろにすべきと刷り込まれても、日本という国はアジアを侵略し、女性を襲い、子供を喰い殺し、国際社会から成敗された「悪い国だった」と教え込まれても、ほとんどの親たちは無警戒だった。どころか、その無知無関心から、純真無垢な子供らと同じく「そうだったんだろう」と受け入れてしまうことすらあった。もちろん、問題提起する親もいるにはいたが、結果、メディアと世論の圧倒的な物量作戦に屈してしまっていた。
こんなことが70年以上続いている。そのときの子供らはもう、社会に出て生きている。
おかしくなった日本はもう、誰の目にも明らかになりつつある。危機感を共有する必要がなくなってきた。多くの普通の人は違和感を覚え不安になり、調べたり学んだりする。疑ったり確認したりもするようになる。まだ、かなりの無関心なアレはいるが、それでも以前と比して、相当数の日本人が警戒感を持ち、情報を共有して、必死に何らかの発信もしている。気をつけたいのは「遅きに失する」と評して諦めさせようとする連中だ。国防に遅いも早いもない。
楽観視するわけでもないが、それでも日本人はギリギリ、どうにか国柄を護っている。
施設に「女子トイレ」がないとか、除夜の鐘が煩いとか、不法入国、不法滞在の犯罪者を送り返せとか、ちゃんとヘンなことはヘンだという常識が多勢を占める。存外、胡散臭いポリコレに安易に騙される日本人は多くない。もう探さなくても、調べなくても明確なサヨク野党は消滅していくだろうが、次はちゃんと目を凝らさないと見えない悪意を探すときだと思う。つまり、公明党はもちろん、自民党内左派の番だ。