今更だが「メディア」という言葉は「媒体」であると思い出した。「マス・コミュニケーション」が「大衆伝達」ならば「マス・メディア」とは「大衆媒体」であるから、なるほど、チャンネル桜とは「媒体」なのだと気付くことになる。
多くの「マスコミ」は「大衆」のことを「知識人の対義語」として使っている。つまり「一般大衆」という「民衆」と同じ意味で扱われているが、この「大衆」というのは仏教用語で「役の無い坊さん」のことだった。チャンネル桜の視聴者とは、まさに「大衆(だいしゅ)」なのであり、その相手にだけ水島社長は「媒体」を提供し続けているのだともわかる。
たしかに社会や歴史、政治経済や伝統文化に興味もないお子様には、チャンネル桜は何が面白いのか全く分からない。これが民放の「マスコミ」とは異なる点だ。これは事実だから書くが、チャンネル桜という「媒体」とは、ある程度の知識、あるいは意識レベルに達していないと使えない。「政治家なんて誰でも同じ」とか「昔のことなんてどうでもいい」というレベルにある人からすれば、まったく無用の「媒体」である。CMもなければエンターテイメント性も皆無だが、それはスポンサーや視聴者に阿ったりすれば「媒体」としてのアイデンティティが失われるからだ。「テレビ」という家電や「ラジオ」という装置が送信する側の都合、あるいは受信する側の都合を考慮しないように、可能な限り「現実」を伝える「媒体」としてのみ、チャンネル桜は存在する。
だからこそ、この「メディア」は何をすべきか、がわかっている。儲かるとか、ウケるとか、話題になるとか、こちらが心配になるほど、まったく頭にない。必要ならやるし、義務なら果たす、大切だと思うことを大切だと言い、間違いは間違いだと誰にでも言う。
「日本は良い国だった」と言っても、今の日本、金にはならない。どころか、現役の航空幕僚長の首が飛んだ。誰も褒めてくれないし、敵ばかりが増えるけれど、誰かがやらなければならないことを、水島社長もスタッフの方々もやっている。「疾風に勁草を知る」ところの「勁草」こそが「大衆(だいしゅ)」なのだとして「草莽崛起」を望み、今回も危険を冒して放射線を計りに福島第一原発の正門まで行っている。ウソでも売国でも商売になるならやってしまう「マスコミ」には逆立ちしても真似できまい。
そして、我ら「草」は腹を据えて、この国の「勁草」になる。
最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事