忘憂之物

偽善とアル・デンテ

パチンコ屋の頃、2度目の転勤先で見た「透明のプラスチックケース」を思い出した。そのケースはカウンターの上に置かれていて、1次景品である「端玉のお菓子類」などが放り込まれていた。パチンコをすると、おまけのようにくれるアレだ。

飴玉やチョコレート、スナック菓子など色んな種類があったが、中には有名な「ビフィズス菌の入った健康飲料」なども入っていた。あとは、缶コーヒーやらもあった。もらったお客さんが「いらない」と思って入れるようだった。これがある程度の量になると、50代女性の主任だった人が施設に贈るわけだ。この女性主任は私の「師匠」でもあるから、あまり面と向かって批判するのは避けたかったが、良くも悪くも「がめつい(笑)」人で、近所の「激安ドリンク店」に従業員を走らせ、そこで買わせた1本20円~30円の缶入りドリンクを、店舗休憩室に「100円」という看板と共に設置、売上金を自分のモノにするという逞しさもあった。ホールを従業員に任せて、自分は仕事中に「自家製コーヒー」を売り歩いてアルバイトしようと目論んだこともあった。いずれにしても非常識極まりない(笑)。

この「100円ドリンク」であるが、私は当時の店長であった「社長マン」に報告して、これを止めさせるようにお願いしたこともあった。当時から社長マンは馬鹿だったが、これほどの馬鹿だとは知る由もなかったので、さすがにこれはなんとかするだろうと思っていた私が阿呆だった。社長マンは「主任は従業員に商売のコツを教えているのではないか」ときた。ルーピー顔負けだ。なんのことはない、本人に注意するのが怖かったのである。

なにしろ、朝から晩まで店を放っているから、その女性主任がいなくなると困るのだ。呆れ果てた私は次の日、自らの休憩時間に軽自動車を走らせ、その「激安ドリンク店」でお茶やらコーヒーやらを3ケースほど購入して、女性主任の「どれでも100円」の真横に店開きをした。「従業員の皆様、お仕事お疲れ様です!全部、無料です!」という文言と私の名をポップに書いて置いておいた。女性主任は真っ赤になって私に「どういうことだ!」と詰め寄ってきたが、私もあなたも自分の金で買った清涼飲料水をどうしようが自分の勝手、まさか営業妨害とは申しますまい、と素知らぬ顔をした。

施設の子供には「客が捨てた菓子」を送り付けておいて、共に働く従業員から小銭を稼ぐ薄汚さに辟易した。また、そのような横暴を見て見ぬふりしていた馬鹿にも腹が立った。あとから聞けば、そのドリンクの「売れ行き」が悪いとリーダーが叱られるとも聞いた。自動販売機よりも20円安いんだから、スタッフには休憩室に置いてある「冷えていない」ジュースを飲ませろというわけだ。まあ、何かともう「お金しか興味がない」という人だったから仕方がないが、その女性主任に身も心も洗脳されていたリーダーなどは、せっかく置いた私の「無料販売店」ではなく、やっぱり「100円」を払って温いオレンジジュースなどを飲んでいた。まったく、洗脳というのは恐ろしいものだ。

そんな人が「親がいない子供が可哀そう」として、ケースの中の菓子をダンボール箱に詰めている偽善には参った。私が意地悪で「毒入りとか、針入りとかあったらどうするんです?」と問うたら「可哀そうな子供のためにお菓子を入れてくれるような人に、そんなのはいない」と断言する。「負けた腹いせ」に何でもするのがこの業界の客である。世の中には心優しいアグネスのような人ばかりではないから、私が社内で影響力が高まった頃、それをチカラで止めさせた。どうしても続けたいならば、自身の資金で安全なモノを送るように、と言ったら飴玉1個集まらなくなった。所詮は自己満足の偽善、その程度である。

さてさて、なんでこの「透明ケース」を思い出したのかと言うと、それはいま、全国的に出没している「伊達直人」のニュースを見たからだ。なんでもランドセルを配り歩いているという。現金10万円を同封していたのもあったとか。

世の中には「困っている人」や「貧しい境遇の子供」などをみると、放っておけないアグネスのような心優しき人がいる。それは結構なことなのだが、私が気になるのは「個数」だ。ちゃんと調べているのだろうか。今年の春にピカピカの小学生になる子供が5人いて、ランドセルが3個だったらどうするのか。もちろん、足らない2個は買えばいいのだが、小学生になろうとする年齢だ。私でも「伊達直人」からもらったランドセルで入学したい。

人の「善意」を否定するのは勇気がいる。だから、私などはすぐ「悪者」にされる。しかしながら、これは人の「善意」を悪用するよりはマシだ。例えば、最近全く見なくなった「ホワイトバンド」などもそうだった。「イカリングの中身」みたいなアレだ。

恥ずかしながら、私も買って持っていたことがある。300円だった。しかし、この売上金の2/3が製造地である支那に送られていると知っていれば買わなかった。賛同する団体の中に北朝鮮や支那に深くかかわる団体がいると知っていれば、人にも教えて買わせないようにした。世の中にはアグネスのような心の悪しき人もいるのだ。しかしながら「世界では3秒にひとり赤子が死んでいる」としてホワイトバンドには3つのアスタリスク(*←コレ)が刻まれている、とか言われたらつい騙されてしまう。阿漕な商売であるが、これも結局は「自分が薄っぺらい」から騙されるのだと、自責の念を込めて書いておく。「知らなかった」で済むのは鳩山由紀夫だけで十分だ。


先ほどの女性主任関連でもう一つだけ書いておこう。この「薄っぺらい偽善」の正体がよくわかる出来事だ。とある「新台入れ替え」の日だった。

一台の電動車椅子がホールに入ってきた。時計を見ると開店時間よりも5分早い。何事かと思って駆け寄ると、その女性主任がマリア像のような微笑みを浮かべて、ひとりの身体障害者を案内していた。台を選ばせてから、その周囲の椅子を引き抜いていた。車椅子が入れるようにだ。狭いパチンコ屋だったから、車椅子が入ると両隣りは座れない。さすがにそれは不味いとして、女性主任は端台を勧めていた。その障害者も納得していた。

私は「それはダメなんじゃないか」とやった。その女性主任は普段から苦虫を噛み潰した顔をしているが、私のほうを見るともっと苦い虫がいたような顔をした。そして、話はその日の「終礼」である。店長である社長マンもいた。社長マンは「その様子」を事務所のカメラで見ていたらしく、大層感動した、と話しだした。「主任の優しさに心を打たれた」とのことだった。安い心だ。褒めてもらった女性主任は毅然として「当然のことです」と表情を引き締めた。それでも私はやっぱり「それはダメなんじゃないか」とやった。

私は社長マンに対し、その障害者のお客さんが入店したのが「営業時間前」であることを告げた。これは明確な条例違反である。そもそもパチンコ屋とは、営業時間外にホールに出入りする者は、従業員ですら名簿で管理せねばならない商売である。しかし、社長マンはこれを知らず、私が何を問題としているのかわからない様子だった。また、以前からいるスタッフに事情を聞くと、その障害者は毎回らしい。普通、新台入れ替えのイベントであれば、気の早いファンは早朝から震えて待つ。店によれば並ぶ客を気の毒に思い、サービスでホットコーヒーを提供したとのことで、所轄警察から注意される店もあるほどだ。しかしながら、その障害者は自分が優待されると知っているから、開店時間ギリギリに来る。もちろん、並んでいる他の客からは非難轟々であった。

これを非難する常連客や若い客のことを、社長マンも女性主任も「自分のことしか考えぬ心の冷酷な人たち」と罵っていたことも知っている。その日の終礼でも、私はその「冷酷チーム」に入れられた。女性主任は「お前には可哀そうと思う心がないのか?」と詰め寄ってきた。全従業員の前である。恥をかくわけにはいかないだろうが、私も引き下がるならば最初から言わない。私は「優先して入場させること、もちろん、開店時間を待ってもらうことが条件であるが、これは認めても良い。しかしながら、それはその障害者のお客さんが最前列にいたとき、当店が発行する整理券を持っているときに限るべきである」と反論した。朝起きるのが眠いとか寒いとかに障害者も健常者もあるわけない。台数が限られる「新機種」を問答無用で1台キープさせる理由として「障害者だから」は明らかに逆差別だ。

これも後に私はチカラで止めさせることになるのだが、この時の終礼では最後まで冷酷非道扱いだった。社長マンは女性主任が優勢だと判断したのだろう、私に対して「そういう気配りが出来ないから、お前はダメなんだ」と威張って言った。何が悲しくて、この馬鹿に「ダメだ」と言われねばならないのかと思ったが、この数年後、社長マンは信じられない手のひら返しを披露する。とある酒席での「懐かし話」でこの話が出たときだ。


「あのとき、お前の情に流されない判断力、決断力をみた。管理職に向いていると思った」


私はこの馬鹿の鱗を全て取り、内臓を引き出してよく水道で洗い、三枚に下ろしてから絶妙の塩加減で下ごしらえ、そのまま手早く竹串を通し、じっくりと炭火で焼いてから釜山港へ捨ててやろうかと思ったが、海が汚れるとお魚さんが可哀そうなので止めた。

「薄っぺらい」のである。「戦争→悲惨→ダメ絶対→マンセ―」のレベルである。思慮が浅いとこうなるという見本だ。



朝日新聞社の松本仁一氏が著書「アフリカを食べる」でエチオピア北部コレム難民キャンプのことを書いている。日本の「乾パン」が喜ばれている、というレポートだ。朝日新聞社だからとはいえ「日本は賞味期限の切れた乾パンをエチオピアに送って自己満足している。貧国には食の安全などないとでも言うのだろうか」とは書いていない。松本氏は朝日新聞にいるのが不思議なほどマトモで面白い。「カラシニコフ」は是非とも読んでほしい。

読めばなるほど、である。たしかに賞味期限は切れているが、その「東京都大田区・非常用食品」と印字された缶詰はエチオピアで多くの子供の命をつないでいる。しかも、取り分ける必要すらない。「ひとりひとつ」を手渡せば事足りるのだ。言うまでもなく、エチオピアの子供らは「病気を治す」前に体力を戻さねばならない。それには安全で栄養のある喰い物が欠かせない。食料を配給するにも「人手」が必要だから、それをどのようにして喰わせるのか、までを考えておかねばならない。例えば、イタリアの支援組織は大量のパスタを送ってくるという。もちろん、パスタはそのまま倉庫で場所を取るだけになる。「飲み水がない」から人がバタバタ倒れているというのに、たっぷりのお湯でパスタを湯がいて「やっぱりアル・デンテだね♪」とか言うわけない。

その缶詰には「氷砂糖」も入っている。エチオピアの子供らは「氷砂糖」など知らないから、なんだこりゃ?と道端に捨てる。松本氏はそれを拾ってそこらの子供の口にねじ込んだ。すると、一斉に「氷砂糖争奪戦」が始まったと書いてある。日本の常識が通じぬ国はある。国連がいう「ひとりが生きていける最低量の穀物」とは月計算で21キロらしい。だからといって日本で採れた高級なコメをたくさん送っても仕方がない。米は焚いて喰わねばならないから水がいる。火がいる。人がいる。茶碗もいれば箸やスプーンもいる。握るにしても大変だ。難民が百万人いれば握るメシの量は二万トンだ。ならば「賞味期限が切れた乾パン」はぴったりと合致する。これを「どうせ送るなら美味しいものを」というのは送りっ放しの自己満足だ。

ランドセルを送りたいなら、1800円持って郵便局に行けばいい。それでアフガニスタンへ届く。アフガニスタンの子供は日本の施設にいる子供よりも遠く離れた学校に行く。舗装されていない道を何十キロも歩いて通う。手提げバッグは疲れる。新品など奪われる危険が増すだけだ。使い古しでちょうどいい。もちろん、豚皮のランドセルはイスラム圏だからダメだ。贈るならば、そういう配慮こそ贈ろうではないか。

それでも「日本の子供に新品のランドセルを贈りたい」という愛国心溢れる人は勝手にすればいい。伊達直人も菅直人よりは人気者だ。ま、その前に、施設に暮らす日本人の子供には選挙権がないから、という理由だけで民主党の子供手当が日本に5000人以上いる「両親不詳の子供らには支給されない」という阿呆な理屈をぶっ倒してほしいところだ。
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