先日、大阪護国神社で行われた「同期の桜を唄う会」。
満開の桜に感動して飲み過ぎたということを反省する前に、もうひとつ、とても感動的な出来事があったので記しておきたい。
「サクラ幼稚園」の園児たちだ。まあ、あんなに愛らしいチビッコが「教育勅語」を一所懸命に唱和するだけでも感動するのだが、今回、それよりも鳥肌が立ったのは、そのチビッコたちの「整然とした」態度である。隣の子供と手をつなぎ、2列に並んでお利口に出番を待つ園児に、私は「日本の良さ」を再確認させられた。はしゃいで走り回りたい年頃であることは言うまでもない。それでも、にこやかに手をつないで、ちゃんと待っているチビッコに、私はこの国の将来を期待するものであった。
それに比して情けないのは、成人式で荒れ狂う猿どもをみるまでもなく、最近めずらしくもなくなった学級崩壊や、コンビニの前や店内で地べたに座っている野良餓鬼どもである。
やはり「教育」とか「躾」というものに重大、且つ、深刻な懸念がぬぐいきれない。
http://www.asahi.com/national/update/0414/TKY200804140039.html?ref=sidebar
<女子中学生、警官につば・けり 自転車2人乗り注意され>
法律なんぞ守る気もないどころではなく、あるのさえ関係ないとばかり勝手気ままに振舞う。そのくせ「少年法」という法律を悪用することに恥も感じない。こっちは少年だと、保護しろと、更生させろと騒ぐ「腐れ人権キチガイ派」の影から舌を出しているのだ。
「2」へ
■2008/04/15 (火) ガチコメ的「悪平等に殺される子供」2
<調べでは、同市内の路上で12日午後5時10分ごろ、同署地域課の男性巡査部長(44)が自転車に2人乗りをしていた女子生徒に注意すると、1人が「どうせ警官は何もできないんだ」などと言いながら両手で巡査部長の胸を突き飛ばし、もう1人も巡査部長の足をけり上げるなどしたという。現場にいた同課の男性警部補(41)が2人を署に連行しようとしたところ、近くにいた別の女子生徒が自転車に2人乗りで合流し、「ふざけるな」などと言って警部補の左ほおにつばをはきかけたという。警官にけがはなかった。>
「毒を持って毒を制する」という言葉がある。
もう、餓鬼を取り締まるには「ヤクザ」を使え。チンピラの「しのぎ」を警察が回してやれ。手加減もしないし、屁理屈も通らんチンピラにパトロールさせて小遣いを渡せ。どうせどこかで悪いことするんだから、少しでも地域のためになることをさせろ。そのチンピラの顔面につばを吐きかけるなら、どうぞ「自己責任」でどうぞどうぞ♪
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それにしても、この舐められ具合はどうだ。警察も教師も「なにもできない」とマスメディアが散々喧伝した結果がこれだ。未成年という立場を悪用する浅知恵が跋扈する社会は、いずれ、その大きな代償を支払わなければならんだろう。
国を担う若者が、その国を放棄するとき、当然ながらその国は滅びる運命にある。そして、それはもう、手遅れかもしれないのだ。
大人に反発する年頃もある。社会に取り込まれてしまうような閉塞感を覚える年代もあった。ただそれは「自分勝手」で「卑怯」なことを唾棄する純然たる「反抗心」であった。
詭弁を弄する大人を忌み嫌い、臭いものには蓋をする風土に呆れ果てた。その場しのぎの嘘や、都合のいい解釈に切れてみせた。私も親に手をあげるほどのカスではなかったが、それなりに破壊活動は頑張った(笑)。校舎の窓ガラスは割らなかったが、隣の工場のブロック塀を壊して回った。教室の窓から病院の庭の木に飛び移り脱走もした。その木は「いちじくの木」だったから実がなれば盗んで喰った(笑)。大人なんか嘘付きだぁ!!と盗んだバイクで走ったらコケて捕まったという今日この頃、みなさm(以下略)。
「3」へ
■2008/04/15 (火) ガチコメ的「悪平等に殺される子供」3
「大人が怖くない」
「両親が怖くない」
「教師が怖くない」
「上司が怖くない」
なぜか?
同じ人間であり、人間とは平等であるという「卑怯な嘘」の所為である。
人間には等しく尊厳というものがあり、その「人権」は何があっても守られねばならんという「都合のいい嘘」の所為である。人間が平等でないことくらい、本来は誰でも知っている。だから「公平」という厳然としたルールがそこに敷かれるわけだ。
だが、こいつらは「公平」を嫌い「平等」が好きだという。いや、もはや「平等」も「公平」も混同してしまって、都合のよい部分だけを抜き出して用いているのだろう。
私がよくするたとえ話だが・・・
『栗拾いに行こう。全員で5人。みんなで栗拾いに出かけた。拾った栗を数えたら、全部で50個だった。手にとげが刺さりながらがんばったAくんは20個も拾った。Bくんは10個Cくんは9個、Dくんは11個。Eくんは・・・0個。Eくんは邪魔くさがり屋で、さぼって昼寝をしていたのだ。さて、どうしたもんか。』
「実力主義・能力主義」とすれば「全員が拾った数だけ」を持って帰ればよい。たくさん欲しければたくさん拾うというだけだ。拾えない人は栗が喰えないだけだ。実にわかりやすい。でも「平等主義」ならば、ひとり10個ずつ分ければいいと言いだす。これも理想的だ。弱者は救われる。
「独裁主義」ならば、ひとりが全部集めてから、各自にひとつずつでも分け与えればいい。もちろん、分け与えなくともよい。これはダメだと思う人は多い。
「4」へ
■2008/04/15 (火) ガチコメ的「悪平等に殺される子供」4
この「たとえ話」には答えが無数に存在する。正解はおそらく出ない。
つまり「条件」と「結果」が変われば意味も変わるからだ。
ただ、「阿呆でもわかる」範囲はある。「Eくん」がさぼっていたなら問題だが、一所懸命にやっても「結果」が得られなかった場合はどうか。「ミスター栗拾い」と異名をとる「Aくん」は、その直感と機動力を生かして人の倍の「結果」を得ることができる。そして「半分は優しさ」で出来ていると豪語する優しい「Aくん」は、自分の拾った栗の半分を「Eくん」に差し出した。「ひとり暮らしだから、こんなにいらない」という「Dくん」も4個を「Eくん」にプレゼント。気まずくなった「Cくん」もしぶしぶながら2個あげることにする。ひとつも拾わなかった「Eくん」が、だれよりも多い「16個」の栗を得てしまうという皮肉な「結果」もある。
そして、ここで気づくことがある。
それは、「平等」だけが単独で成り立つことはないということだ。
「平等」とはシステムではない。人間の最も人間的な部分を必要とする「価値観」なのである。この「たとえ話」でいうならば、「平等」が守られない場合とは「栗拾いに参加できなかった」というに限られる。つまりは「機会の平等」、ただそれだけなのである。そして、
それだけは守られなければならない。
それは「栗拾い」であろうが「イチゴ狩り」であろうが、それを「選択する」ことを前提とする「参加の平等」のことであり、また、「まったけ狩りに行きたいのに行けない」というのは「それを選択できない」という個人の問題である。これに安易な「平等精神」をもって参加させるようなことをするから「悪平等」が生まれるのだ。
「まったけ狩りに行けないのはおかしい」という愚見は社会主義のそれに近い。ならば、「全員行けなくする」という悪平等の基盤となる。しかし、どれだけがんばっても「まったけ狩り」に行けないというのも、労働意欲は殺されるし、活力は減退する。
だからそこに「公平」というルールが肝要となる。そのルールを順守するとき、仕方がないことは歴然としているのだ。「できること・できないこと」には明確な理由が存在する。当たり前の話なのだが、浅薄な「平等主義」ではここがわからない。
「5」へ
■2008/04/15 (火) ガチコメ的「悪平等に殺される子供」5
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子供の頃から「公平に扱う」ということを避け、定義のあやふやな「平等にあるべき」が独り歩きする。そして手前勝手な価値観は、他人との関わりで成り立つ実社会では、至極当然に通用しない。許される時間は少ないものの、己はできもせぬのに「その秩序」の中で必死に暮らす大人を見下す。「同じ人間」という短絡的で大雑把なカテゴリーに甘えて手を抜いて年を取り、でもやはり、己は他人とは違うのだと、みっともなく足掻いてみせる。
「平等」に基づくならば「反抗」とは無意味化する。すなわち、それは「抗う」のではなく単調な「攻撃」であるのだ。己が社会に護られている(正しい意味での)自覚もなく、安全で安楽なポジションから、そのコミュニティを形成する大人を軽視する。腑抜けるのも当然だ。ンなもん、反立、アンチテーゼなどではないからだ。ンなもんは「行動力」でもなんでもない。ただ粗野で粗暴なだけの振舞いである。「手がつけられない」というだけの凶暴で脆弱な生き物である。恥ずべき存在である。
餓鬼には「公平」を教えねばならん。
「特別」などどっちでもいいほどの、絶対的な「公平」を刷り込まねばならん。いきり立つ餓鬼の髪の毛を掴んで「行動に伴う結果は公平」であるのだと教えろ。大人はその「覚悟」を取り戻さねばならん。
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