忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

日本の核武装は必然的である。

2007年06月02日 | 過去記事
■2007/06/02 (土) 日本の核武装は必然的である。「1」

予想していたよりも最悪である。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200705310023.html
<資料館展示見直しに中韓の声>

広島の平和記念文化センターの理事長に「加害国」であるアメリカの平和運動家・スティーブンリーパーなる人物が就任、それも社民党の広島市長からの依頼を受けての就任ということを私は危惧していたのである。先の4月25日の当日記においても取り上げた。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=522442&log=20070425
<許す強さ。忘れる弱さ。>

原子爆弾の悲惨さを訴え、更には核兵器全体を根絶するがための平和運動ならば、先ずは己の国であるアメリカ国内において政府を批判すべきであると書いた。それは、多くの平和運動家と称する人物が、例外なく「理想の国」から来たお花畑思考の持ち主であり、様々に起こりうる現実的問題を看過、もしくは隠蔽し、言論の自由が保障されている安全な我が国において、無責任で非現実的な「夢想物語」をまき散らすことについての批判でもあった。

「2」へ

■2007/06/02 (土) 日本の核武装は必然的である。「2」

更に残念なことは、日本国内においてそのように脳内を洗浄されたかの如く、夢想をまき散らす哀れな運動家をここぞとばかり利用し、あたかもそれが世界の常識であるが如く、我が国を「右傾化」とレテッル張りするがため、且つ、我が国の背骨を腐らせ、国力を弱体化させる工作活動に、与させるためだけに利用されているということである。

そして案の定、原爆投下を悲惨としながらも、その真因はアメリカの人種差別や人体実験、大戦後の世界情勢を睨んでの共産主義国への威嚇などではなく、我が国の軍国主義、あるいは侵略主義であったかのようにプロパガンダを垂れ流すこととなった。

<原爆資料館(広島市中区)を運営する広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は30日、館の展示内容を見直す検討委員会に、中国、韓国人らアジア出身の委員を起用する方針を明らかにした。リーパー理事長は中国新聞のインタビューに、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」と述べた。>

ここまでされても日本人は黙っているのだろうか。

そもそも「植民地支配」などされていない朝鮮半島から、“原爆投下は日本の植民地支配を終わらせた”というような唾棄すべき愚かな妄言を既成事実化させてもよいのか。

この歴史を研究することもしない薄ら呆けたような毛唐理事が、無邪気にまき散らす納得や共感というものを放擲していてよいのだろうか。

「3」へ

■2007/06/02 (土) 日本の核武装は必然的である。「3」

100歩譲ってだ。広島の原爆資料館の意義が「核兵器」の全面的禁止であり、大量破壊兵器の使用を糾弾するが故の施設だったとしてだ。つまり、

「いかなる理由があろうとも、その使用は悪魔の所業である」

と訴えるのが本来の役目だったとしてもだ。それを中国や韓国というだけの特殊な国を「アジア」と称し、その使用に正当性があったなどとするのは、恐るべき本末転倒ではないのか。

絶対使用禁止という前提で成り立っている資料館ではないのか。核兵器使用について「正当性」があったとすることは、その施設の意味すら瓦解する愚考ではないのか。中国や韓国からするに資料館ではなく「記念館」とされてしまう可能性は十分すぎるほどあるではないか。

そもそも「植民地を解放するため」と正当化するならば、日本が「アジア解放」のために国をかけて最大強国アメリカと戦った、堂々たる大東亜戦争はやはり聖戦だったということであろう。そのためなら「核兵器」の使用も正当化されるならば、アメリカが直ちに中国に対して先制の核攻撃を行っても肯定されねばなるまい。中国といえば、隣接する国々を次々に侵略し、この近代において植民地政策をとっている恐るべき軍事国家であり、国際社会からも大虐殺五輪と称されるほどの侵略国家ではないか。なぜ故にそんな「国」に平和を語る資格があるというのだ。どこまで狂ってるのだ。

狂いついでにいうと、この国の「核」についての扱いも狂いっぱなしである。ちゃんと認識もしないから、このような愚かな左派乞食がいいように「核」を都合よく扱うのである。

「4」へ

■2007/06/02 (土) 日本の核武装は必然的である。「4」

先ず「非核三原則」という「三猿主義」よろしくの廃れた概念は撤廃せねばなるまい。とはいっても「核の議論もしてはいけない」を足して「非核四原則」ではなく、事実上は「持ち込ませない」をなくした「非核二原則」であるということだ。「核の傘」なるアメリカの核兵器にすがりながら、北朝鮮や中国の核兵器に怯えるなどという阿呆猿のマネはいい加減にしてもらいたいものである。それも潜水艦からの弾道ミサイルやなんかからすれば、通例のアメリカの「傘」など穴だらけの使えない傘であると自明であろう。

いい加減「核を持つ」ということを真剣に考えねばなるまい。世界情勢を鑑みるに、あくまでも「持つ」という方向性である。左派が「結果ありきではないか!」と妨害するなら自衛隊を派遣して黙らせるしかない。かまっている時間はないかもしれないのだ。

反対派がいうことは結局のところこれしかない。

“核武装すると、核燃料の輸入を止められるぞ?そうなると日本の電力は25%くらいしか使えないぞ?それでもいいのか?”

という、いかにも世論に迎合する一般論を振りかざすしかない。しかしながら、それも「一時的に」という条件であれば、回復することはさほど難しくない。現在の日本に不必要と思しき電力は残りの75%を補ってあまりあるのではないか?優先順位と期限を設けて規律正しく使用すればよいのだ。それでも「アメリカから輸入できなくなった場合」という条件下に限られるのである。準備段階でいくらでも対応策は出てくるであろう。なんでもかんでも国民を脅して馬鹿にすればよいというものではない。

「5」へ

■2007/06/02 (土) 日本の核武装は必然的である。「5」

同盟国であるアメリカ、1万発以上の核兵器を具備している同盟国に守られながら、つまり、「核の抑止力は核」という、どうしようもない現実から目をそむけているのも限界であろう。その傘に穴が開いているということを国民は知らないのか。いや、国民はともかく、この国の防衛を任じている政治家はどのような理解をしているのか。

「北朝鮮の核は危険。独裁国家だから危険。」

ということで批判しているだけでは話にならん。

たとえば前防衛庁長官の石破茂は、あの腹話術の人形のような顔で「現在の核保有国は民主主義国家であって、北朝鮮は独裁国家であるから・・・」などと言う。何をほざいているのか?中国やロシアのどこをみれば「民主主義国家」のかけらを見つけることができるというのか。北朝鮮のオンボロ核兵器と比して、どちらが差し迫った強大な危険なのか。まあ、それに比べると安倍さんのいう「平壌宣言に反している」という批判のほうが的を射ているわけだが・・・。

現実的な議論を尽くさねばならない。国内で政治と金の話で盛り上がっている場合ではないのだ。社民党なども政党であるならば、有事の際、国民をどのようにして守るのかを具体的に示させねばなるまい。批判のための批判を繰り返しながら、血税を吸うことを許してはならない。徹底的にいぶり出し、実は中身など何もない、ただこの国の弱体化を図るための組織であるということを白日の下に晒さねばならない。

広島原爆資料館の毛唐理事長の前は朝日新聞理事長であり、それを推薦したのは社民党の市長である。この国を解体しようとする勢力は形振り構わず狂いまくりである。

憂国の連動を起こさねばならない。具体的に、効果的に。

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