忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

神輿の担ぎ方

2012年02月03日 | 過去記事





民主党には馬鹿しかいない、とバレてきた。テレビも「防衛大臣が続けて素人」とやっている。鳩山由紀夫を「夕食の後片付けもする家庭的な夫」とか「頭が良くて有言実行の政治家」とかやっていたのがウソのようだ。31日、田中防衛大臣は自民党の山谷議員から「南スーダンで日本の陸上自衛隊の警護をするのはどの国?」というクイズに「決まっていない」と答えてびっくりさせ、その後、勝手に国会内の議員食堂に行ったりして、また、びっくりさせた。出来の悪い小学生と同じだ。次の日は衆議院の予算委員会で「ジョイント・エアー・シー・バトル(統合海空戦闘)構想」とは?というクイズに「わかりません」と正直に答えて小池百合子氏に「愕然とした」と言わしめた。

しかし、本当はそんなのは大したことじゃない。管直人は長崎市の平和祈念式典後、記者会見で「昨年に続いて8月8日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に出席させていただいた」と言って記者らをびっくりさせた。小学生でも知っていることを一国の総理が知らない。野田総理も「ISD条項」を問われて「よく知りません」と答えて自民党の佐藤ゆかり議員は驚く他なかった。鳩山由紀夫はもう、書くまでもないほど、びっくりばかりだった。この政党は党首からしてこの程度であった。

民主党の1年生議員も負けてはいない。昨年、12月の臨時国会で行われた「原子力協定」の採決に「中身をよく知らない」として棄権したのもいる。本会議や委員会に来なかったり、よくわかんない、ボク退屈、として途中で退席する初当選組も目立つ、ということで、慌てた松本剛明国対委員長代理が講師役を務めて、またまた「勉強会」をやった。中身は「法案の説明もあるし、部門会議に出席しなさい」だった。要すればちゃんと来なさい、最後までいなさい、ということだ。これもよくダメな小学生が言われる。

また、いくら「テレビに映るから真面目な姿を」と諭しても、中身が何もわからぬのに座っているだけではヒマを持て余すだろうと「本会議では座って拍手しなさい」も付け加えた。自民党の西田議員から「何の拍手なんだ?」と言われるほど、中身は問わずに民主党大臣が何か話せば拍手する簡単なお仕事なのだが、今日、国会中継を見ていると、その党の方針に従わない初当選議員がいた。長尾たかしだ。

拍手でもすれば「民主党のお仕事、御苦労さまです」と携帯電話でも鳴らしてやろうかと見ていたが、長尾たかし議員は拍手もせず、ヤジも飛ばさず真面目に議論を聞いていた。馬鹿じゃない議員もいることを思い出した。

八尾の事務所に行ったことがある。借りていた拡声器を返しに行った。当時、会社勤めだった私は部下一人を連れていた。当選前の長尾たかし議員は自分で缶コーヒーを買ってきてくれた。それからしばらく、雑談交じりに「A級戦犯」やら「南京事件」について話した。面白かった。しっかりした歴史観に基づく膨大な知識量だと驚いた。生意気な言い方かもしれんが、ちゃんと勉強して、本を読んで、血肉になった知識だった。民主党には似合わぬ議員だ。一緒にいた部下は「どっちも何を話しているのかわからない」と笑っていた。長尾たかし議員は、無知な部下をバカにしたりせず「ボクらはオタクですから」と言っていた。あなたが普通なんだと。

おそらく、民主党にもそういう議員はいる。「オタク」と呼んでも差し支えないほど、その専門に長けた議員がいるはずだ。経済でも福祉でも安全保障でも、あれだけの人数、そのスジの「オタク」がいるはずなのだが、これがなかなか表に出て来ない。1年生だから、でもいいが、それなら5年生とか10年生にはいないのか、となる。もちろん、これもいるはずだ。彼らの「自公連立政権批判」とは悪口ばかりでもなかった。ちゃんとした政策批判もあった。しかし、現実は驚かされる人物ばかりが閣僚、どころか総理大臣になる。

よく「組織は人事」と言われる。これも当然で、限られた人材を用いて形を創ることが組織形成だ。コレの失敗事例としては「派閥人事」がある。いまのマスコミが「党内融和」と言い換えていることだが、いまの民主党の失敗例がソレだ。

一般企業でもよくある。「血族経営」もそうだ。適材適所、適正評価の前に何かと弊害がある。それでも、ある程度ならば「立場が人を創る」でなんとかなる。それなりの無能でも、その地位の責任や重圧から、なんとなくそれなりの人物になったりもする。しかし、モノには限度があって、どうしようもないイカレポンチをトップに据えるとエライ目に遭う。2009年の総選挙がコレだった。限度を過ぎた無能者は人事も出鱈目をやる。バランスを取り過ぎてバランスを失う。報復人事有りべしで無茶をやる。派閥争いがメインになって全体の目的が失われる。無論、完全に派閥を無視して人事を行えば空中分解する場合もある。それは「派閥」というモノも人の塊、ある意味では組織化されたモノだから、その中の有力者、影響力を有する人物を押さえておかないと、その後の組織展開に支障を来すからだ。

また、政党の場合は「選挙」という特有の条件もある。だから「選挙に強い」と言われる政治家はチカラを持つ。当選しなければただの人、である政治家は、その前提条件として選挙に勝てねば話にならない、という宿命がある。だから「選挙が強くて金もある」となれば、それは少し前なら「剛腕」と呼ばれて話題にもなった。最近では「選挙に圧倒的に強い」という大阪新市長が人気者になる。政治家はなかなか彼を叩けなくなる。

「大阪都構想」を職場で聞いてみる。誰も説明など出来ないし、誰も興味すら抱いていない。なるほど、ここが京都だからか、と納得して5日に投票日となる「京都市長選」を聞いたが、誰も候補者すら知らなかった。「介護報酬が1.2%のプラス改定」という新聞記事を切り抜いても読んでいる人は限られる。つまり、問答無用で政治や選挙に興味がない。

しかし、橋下新市長は人気がある。好きだと言う。中には「なんでも自分だけで決めて・・・」と香山リカとか薬師院みたいなことを言う連中もいるが、すぐに「でも、誰かが決めないとダメじゃん」と言い返されていた。「朝まで生テレビ」の影響かもしれないが、実はその通りであり、要するに巷の我々における選挙とは「誰に決めてもらうのかを決めていた」というモノなのだと思い出した節がある。先ほどの民主党の1年生議員に限らず、国会議員が採決を棄権する、という愚がどれほどなのかもわかる。そして、コレは丸投げではなく、いわば不可抗力である、とも思い出す。民主的な国家の仕方がない部分である。

2日の産経新聞に東洋学園大学教授・櫻田淳氏が書いていた。氏は<「八百屋、魚屋にデモクラシー運動とはなにかと聞いてみてわかるのは一人もいない」>という長谷川如是閑の言葉を引用し、要するに消費税増税に賛成か反対か、よりも市井の人々は冷淡に野田政権を見ており、その結果、なにやら信用できないと判断している、とした。そして、その真因を「野田佳彦そのもの」であると喝破している。胸のすく解説だ。

実は、我々はなんとなくだが、総合的に判断している。断片的な情報をつなぎ合わせ、その欠片を摘まんだり、忘れたりしながら、結局のところ判断している。その判断材料の過半がテレビマスコミであった。だから操作されたし、騙されもした。且つ、その判断材料とは非常に劣悪なモノで、もしかしなくても判断を誤らせるに十分足る、悪意に満ちた使えない材料だった。「とある勢力」に不利な材料は徹底的に隠蔽、もしくは廃材として処分されてもいた。つまり、誤解を恐れずに言えば「橋下徹」はもっといた。市井の人々が混乱させられなければ、あるいは踊らされていなければ、総合的判断の結果、この人物は信頼に足る、と判断可能な政治家はもっといた。しかし、彼ら彼女らは有能ではあったが、マスメディアが洪水のように流す「廃材」の如き判断材料の前に屈してしまう。

過日の大阪ダブル選挙、橋下新市長は身内のことも、テレビタレント時代のことも持ち出されていた。すなわち、我々は執拗に「廃材」を見せつけられていた。だから平松前市長も52万票入った。前回、2007年の市長選では36万票で圧勝だった。前市長は直ちに「朝鮮学校との共生」を実現、朝鮮学校への奨学金を手厚くします、という約束通り、毎年2000万円以上の税金をから出すとやった。北朝鮮に対しては橋下氏を超えるリーダーシップを発揮した平松氏だが、民主党のときと同じで、こういう「判断材料」はテレビではやらない。

また、平松陣営は橋下陣営が「日の丸・君が代」ということでイデオロギー反応してしまった。「独裁者」だの「ファッショ」だのとやった。「ハシズム」などという造語も飛び出し、左巻きのくるくるぱー知識人も総攻撃した。鳥越俊太郎は「小泉選挙の大阪版だ」という、およそ金もらって書いているレベルでないコラムを毎日新聞に載せ、そこで<有権者の熱狂はロクな結果を生まない。それは太平洋戦争の末路が私たちに教えてくれる最大の教訓>と負け惜しみ、無茶な皮肉も書いていた。「廃材」を提供するのは、いつでも「廃材」だとわかる。しかし、その「廃材」にやられた人、騙された人は結構いて、今回は増えた分の約16万票がソレになる。

それでも2011年、市井の人々はメディアを裏切った。大阪の街で必死に「独裁者は危険とちゃうか」「なんでも勝手にやる、ちゅうのはどうやろ」というオッサンやオバハンを探して話させたが追いつかなかった。それよりも「笑顔がいい」とか「モノをはっきり言う」が評価されていた。メディアが悪用してきた「またブレた!」も逆作用した。実際はともかく、橋下は良くも悪くもブレない、という評価となっていた。

あの悪夢の政権交代から2年半ほど。鳩山由紀夫→菅直人は外圧だったのではないかとさえ思う。「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」ということだったが、アメリカも支那も「もう少しだけマシなパーはいないのか。いくらなんでも酷過ぎるだろ」ということで野田が出てきた可能性はないか。テレビはわざわざ自民党の総理大臣から数えて「コロコロ総理大臣が変わる日本」と馬鹿にするが、政権交代からこっちは明らかに「変わる理由」が変わっている。GHQの自動操縦よろしく、反日メディアの総攻撃で引きずり降ろす、から「メディア必死の擁護」も虚しく馬鹿を晒して庇いようがなくなる、に変化している。

そんな連中が人事をしているから、どうにもマトモな人事が行われない。専門性が必要な部分にまで素人を宛がう不様が続く。国民からしても「国家の機能不全」と思しき困った状態が露出し始めている。倫理観の欠如、順法精神の崩壊は目に余る。無知が過ぎる民主党の防衛大臣など「虹の会」の新年会でも馬鹿にされるレベルだ。これは「人材がいない」のではなく、本当の意味での適材適所が行われていない、あるいは、それを阻害する要因が多すぎるということだ。また、こういう不具合は震災があったり、原発事故があったり、外国からの危機が迫ったときに露呈される傾向もある。いまがソレだ。「パーを担いで」楽しているときじゃない。日本がどれほど「ルーピー(パー)」で困ったか。

ところで、この「担ぐ神輿は~」は海部政権時代の小沢幹事長(当時)が言ったとされる。このとき、平成元年の総裁選はたしかに海部が279票を獲得して総理になった。負けた総裁候補の中に石原慎太郎がいた。48票で敗れている。「軽くてパー」じゃなかったからだ。それから24年過ぎた。そろそろ「ずしりと重く、担ぐのが辛い」神輿が登場するかもしれない。いままで神輿にぶら下がってきた連中、わっしょいわっしょいと声だけ出して足が浮いていた連中は弾き出される。それはもう大阪では始まっている。


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