忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2009.1.19[3]

2009年01月19日 | 過去記事
ニューヨークのハドソン川に不時着したUSエアウェイズ機の機長が英雄視されている。もちろん、2名の日本人客を含む多くの乗客の命を抱いて、冷静、且つ、適切な判断を下し、見事に難儀を乗り越えた機長には敬意を表するところではある。▼そして、やはり、英雄とは称えられるべきものだと痛感するのである。その国、その地域、その民族の英雄とは子々孫々まで伝えられるべき偉業を成し遂げた人物であり、その後の困難に対する気概や勇気の温床であり、その誇らしい気持ちこそが愛国心という公共心の根底を創りあげるのだと得心する。▼今、このニューヨークで英雄視される機長を誹謗中傷したらどうなるのか、または、根も葉もない醜聞を流せばどうなるものか。それはいうまでもなく、アメリカ全土を揺るがす「怒り」に触れるだろう。我らの英雄を侮辱することは断じて許さないという「健全なナショナリズム」が沸き起こると思われる。▼しかし、それが沸き起こりにくい国がある。そう、日本国だ。伝えられるべき英雄はたくさんいた。日本には日本として英雄はたくさん生まれていた。欲目なく、客観的に言っても、本当に素晴らしいまでの英雄の方々はいたのだ。▼しかしながら、日本ではその英雄達を「いなかったこと」、もしくは「捏造してまで貶める」という愚挙を撒き散らせる輩が跳梁跋扈した。諸外国の学者から「究極の公の精神」と崇められた特攻精神は「無駄死に」「狂気の沙汰」だと貶められ、元英軍士官が「ようやく」来日して語った「敵兵の救助」に纏わる逸話も報道は少なく、当時の国際連盟から感謝状を贈られるほどの規律正しき日本軍は、悪鬼として、強姦魔として、殺人集団として、略奪放火魔として、卑怯千万、卑劣な軍隊として伝えられる。▼英雄が残すものとは「自負心」であり、「誇り」である。その末裔として恥じぬ生き方を誓う存在なのである。それは如何なる率先垂範よりも優先され、その境地に至るための努力における動機付けともなる。並ばずとも、近づけずとも、その方向を見ながら生きていくという指針(ポリシー)と成り得るわけだ。日本はそれを「奪われた」のだ。「奪われ」続けているのだ。若者がフラフラするのは当然の帰結である。


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