忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

宇治川の流れにみる8月30日

2009年08月26日 | 過去記事
■2009/08/26 (水) 宇治川の流れにみる8月30日 1

さてさて――――

そろそろ芸能人の「覚醒剤ネタ」は沈静化したのだろうか。

テレビのスイッチを入れるとのりぴーのりぴーだったが、まあ、ともかく、夏休み中のヒマな阿呆餓鬼が「薬に興味を持つ」ことには一役買ったのだろう。なるほど、髪の毛は切ればいいんだな、1センチで10日だってな?なるほど、一週間ほど逃げていればOKなのだなと入れ知恵できたに違いない。そしてお約束の、

「とても危険です。絶対に“やってみよう”などとは思わないでください。“一回だけなら大丈夫”ということはありません。」

も、なんかアリバイ工作みたいで笑える。「納豆で痩せる」と言えば納豆が消え「混ぜるな危険」で楽に死ねると信じ込み、ドラッグストアからトイレ洗剤が消えるのがテレビではないか。無論、その「効果」を十分すぎるほど知りつつ、世論調査などと称して「生活第一」が圧倒的だとするのであるから、今更ながら「テレビの影響力」というものは怖いと思うのである。“一回だけなら大丈夫”と思ってはいけないんじゃないのか。

んで、早起きして新聞なんかを読んでみる。

やはり、総選挙の話題が圧倒的だ。私の自宅は京都府宇治市であるから京都1区から6区までの候補者などが写真付で紹介されている。なんとなく目を通してみるのだが、まあ、高齢者がどうした、障害者がアレだと、皆様、とても「お優しいこと」を述べておられる。財源があるとかないとか、まあ、皆様、とても「お金の話」がお好きなようだ。

ま、いずれにしても、まだ選挙権がない私に代わり、何人かの「動員(笑)」はかけてあるから、今更に「選挙公約」など関係ない。比例は「あの政党」の名前を書いてくるだろう。『お願いします。助けて。』という切なる願いが届くはずだ。「故人」からの献金は受け取れないはずだが、日本を憂いて散華された「英霊」の意思は継げるのである。死んだ人から「想い」を受け取っても法律にも抵触しない。

「2」へ

■2009/08/26 (水) 宇治川の流れにみる8月30日 2

ところで、私の自宅からすぐに「宇治川」が流れている。平成21年の今も実に美しい川である。そこから少し「上がる」と「鴨川」と「桂川」もある。辺では弁当を喰うサラリーマンや読書する学生、語り合うカップルや昼寝するオサーン(コレが私だ)などがいる。

実に平和のほほん状態であろう。で、この「ほんわか雰囲気」からはとても、1868年のこの同じ場所において15000人の旧幕府軍と薩摩・長州を中心とする新政府軍4500人が血を流して戦ったとは思えぬのである。(鳥羽・伏見の戦い)

ちなみに、歴史上勝利したのは「新政府軍」となっている。捏造する気はない(笑)。同年元日に「討薩の表」を示して兵を挙げた徳川慶喜は密かに大坂城を脱出。君主の逃亡から旧幕府軍の士気は下がり、大坂へと敗走し始めるわけだ。しかし、兵の数では利のない新政府軍がイギリス製の大砲ガンガン撃ったから勝ったのではない。屈強を誇る会津藩や、大砲にも怯まず突っ込んできて切りかかってくる新撰組などには圧されまくったらしい。というか、「本当は」負けていたのではないかと思う。でも、勝った。なぜか。

ここで錦旗、いわゆる「錦の御旗」の登場である。新政府軍は官軍の証であるシンボルマーク「菊章旗」を掲げるわけだ。旧幕府軍は戦意喪失となった。「戦う義」が奪われてしまったのである。“向かっていく気持ち”に必要なものは「自負心」である。我らにこそ義があり、我らこそが“官軍”であるという公心こそが原動力なる。だからこそ、コレを「悪用」されると効果はあるのだろう。

「3」へ

■2009/08/26 (水) 宇治川の流れにみる8月30日 3

例えば、これが政治家ならば「国のためになる」という認識こそが「錦の御旗」となる。議会制民主主義における「国民の支持」というものは錦旗となり得るのである。いわば、これの「取り合い」こそが選挙というものであろう。民のためとするならば、そこに「民意」による承認が必要とされるということには、ひとまず納得することもできる。しかし、だ。もし、この「錦の御旗」が鴈物だったとすればどうか。鳥羽・伏見の戦いのように、朝廷との密約に基づく作戦だったならばどうか。「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言って笑っていられるのだろうか。偏向当たり前のマスメディアからして、弱者の味方、平和主義などの仮面をつけた売国奴が跋扈する霞が関からして、今回の総選挙における「錦の御旗」とは「作られた国民の支持」ではないと断言できるのだろうか。

目で見てはっきりとわかるマーク。ワンフレーズで全てを語ったつもりになれる言葉は染みわたりやすい。殊更に刷り込まれるともっと効果は増す。「耳に心地の良い言葉の羅列」は、無責任にも“何か”を期待させる。結果に対する責任は不明瞭である。飛散することから、もしくは、その匿名性から責任の帰属主体はわからない。しかし、その被害は全員が受けることになる。それも「増税」や「派遣切り」などの生活レベルではない被害だ。

「鳥羽・伏見の戦い」がなければ、日本の近代化は100年遅れたといわれる。旧幕府軍も新政府軍もその手法、考え方に差異こそあれ、共に国を憂いていたことは周知の事実である。しかし、この8月30日に決せられる「戦い」は同じ意味ではない。「勝たせる」ことによって、はじめて「賊軍」だったと気づくかもしれない。

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