忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ぷろごるふぁ宣言

2010年04月04日 | 過去記事
お客さんの話を聞いていると、やはり「ゴルフ」の話が多かったりする。ちなみに、私はゴルフをしたことはない。サラリーマン時代から誘われることも少なくなかったし、社のコンペなども開催されていたようだし、いわゆる「接待ゴルフ」という言葉があるように、およそ社会人としてのコミュニケーションツールとして常識だと言われたこともあるのだが、私はずっと断り続けてきた。すると、誰からも誘われなくなったから、余計にゴルフに触れる機会がなくなった。思い出すまでもなく、クラブを握ったことさえない。

理由は大したものではない。実に私の勝手な理屈に過ぎないものだが、それでも私は偏屈に断り続けてきた。だから、私はゴルフやマージャンなど、知らない話が出てきた際は、極力黙って聞くに徹するのである。知らないことは黙っているか、教えてもらうかのどちらかしかないから、ゴルフやマージャン、競馬や競輪、宝くじやそれに類似するギャンブルゲームの類について、私は迷わず前者を選んでいるのである。

しかしながら、ゴルフというスポーツを知らなくとも、私が知っている範囲、それも欠片ながらも経験があるスポーツなどと比するに、なにもわからない、ということにはならないようだ。いろいろなスポーツには共通点があると思う。それも「一流」とか「プロ」と呼ばれるレベルならば、必ずと言ってよいほどの共通点だ。

私は以前から、なんとなくであるが「一流のスポーツ選手」に頭のおかしな人がいないことに気付いていた。例えば、あれほど日教組が血道をあげて「日の丸・君が代」を唾棄するように子供らに教え込んでも、オリンピックの表彰台でそれを拒否する選手は見たことが無い。あのWBCにおける日本の連覇の際も、テレビ画面には堂々と日の丸が翻っていたが、選手たちは抵抗感がなかったようだ。国歌斉唱でその場に座り込む選手や、心が傷ついたと騒ぐ者もいなかったらしい。

私が思う「共通点」とは、つまり「その部分」をみて気付いたのである。ゴルフの話題を提供してくれたお客さんの話によると「ちゃんとしたレッスンプロに教えてもらうのが最適」だということらしい。いろいろと議論は白熱していたようだが、結局のところ、そこに落ち着いていた。狭いバーながらも満場一致である。

また、ゴルフには「教えたがる人」が多いらしく、いろんな人がいろんなことを勝手に言うとのことだ。素人がうっかり、それを聞いてしまって練習すると、お客さんら曰く「変な癖」が付いて抜けないというのだ。すなわち、指導を乞うならば「ちゃんとした一流やプロを選定して」教えてもらうのが良いとされている。

私は草野球をしていた時期があるが、最初はもちろん、まったく打てない守れないだった。7試合連続三振記録を更新した。もし、私の職位が「店長」でなければ、とっくに「4番」から外されている成績である。しかしながら、その8試合目、相手は今までのような市場のおっさん連中ではなく、相手チームの投手が「元高校野球選手」だという試合、味方チームの「強打者」がかすりもしない、まさに完全試合されるんじゃないかという雰囲気の中、我々からみれば「メジャー級の剛速球」を投じるエースに、さすがに大きく振り遅れたものの、私の放った打球はぐんぐん伸びてライトスタンドに入った。その日、調子に乗った私は猛打賞で、なんとか「4番」の面目を守ったのである。ビールが美味かったのである。

もちろん、断言するが「まぐれ」である。しかし、その偶然を必然に変えたのは、スーパーで鶏肉を売る主人の「重心を下げて、利き腕でバットコントロールしろ、おまえなら当たれば飛ぶから」というアドバイスである。このおっさん鳥を料理させても美味かったが、バッティングのアドバイスも上手かったわけだ。この「言葉」があの先制2ランを生んだのである。もっと早く言えと思ったが、それは言わなかった。



すなわち、共通点とは「言葉」である。



格闘技でもなんでもよいが、先ずは「言葉」で理解する必要がある。あの「矢吹丈」でさえ少年院の中、ハガキの裏に書かれていた文字で「ジャブ」を覚えたことは有名だ。頭で理解して、それを体に覚えさせる。まれに逆もあるだろうが、いずれにせよ「言葉」による「思考」が介在すると思われる。それを如何にして伝えるかは「教える側」の技量、それをどの程度理解できるかは「教えてもらう側」の技量である。

私は過日のバンクーバーオリンピックにしても、日本の選手がメダルを取った際「日の丸を拒絶しない」ということは、日教組が手を抜いているのではなく、つまるところ、そこまでの「超一流」といってよいレベルに達した選手というものは、言葉を介して自分の頭で理解するという作業を繰り返してきたということだろうと思う。とはいえ、それはさほど難しいものではなく「日本を代表する選手なんだから日本の国旗も国歌も当たり前」という程度の、いわば「国際常識」という範疇に含まれる程度のことだ。

本来、世界最高レベルと言って差し支えない「オリンピックという催し物」に参加できる選手というものは、当然のことながら自分の意志で、自分の頭と体で勝負している。それも究極のレベルで、だ。「スポーツ=健康」などというレベルになく、まさに体を痛めつけるかの如き猛練習を経て、危険を顧みず「挑む」という領域に彼らはいる。だから、日教組には気の毒なことだが、まったくと言ってよいほど通じない。

惜しくも銀メダルだった浅田真央選手が、国旗を背中に羽織ってリンクを回っても、テレビも新聞も「軍国主義の象徴を背負う姿を子供たちに見せるのは問題」などと気が狂ったことを言わないのは、それが本当は「おかしくないこと」だと知っているからだ。

また、スノーボードの選手が「腰パン」などと叱られたことも、それが「オリンピックの日本代表選手だったから」だと周知である。腰でパンツを履こうが耳に靴下を履こうが、ちゃんと「隠れる所」が隠れていれば、日本のどこを歩いても馬鹿だと思われても叱られはしない。しかし、今回、日本中のマトモな人は「腰パン」を恥ずかしいと非難した。私も馬鹿だと思う。日本の恥だと思う。そして、これにもマスコミなどは「表現の自由」などと強く言えなかった。世界の人々も「馬鹿じゃないのか?」と笑った。

小さい声で馬鹿を庇っている阿呆もいたが、それはあくまでも例外的な阿呆だった。どうしても人間、何名かが集まると、その中に「しょうがない人」が混じるのと同じく、それは不可抗力、仕方のないことだ。

すなわち、日教組で日々、日本国の背骨を腐らせる仕事をしている恥ずかしい人、しょうがない人、哀れな人などには申し訳ないが、相手がある程度の努力、あるいは我慢、辛抱、なんでもよいが、とくにフィギアスケートが上手くなくとも、スノーボードでダブルたまごマックセットかなんかを決められなくとも、ホームランを打てなくとも、それなりにちゃんとした人には通じていないということだ。

だから、日教組などの連中は日本人から「言葉」を奪いたがる。思考させないようにしたがる。何度も書いたが、所詮は「考えられたらアウト」なのだ。「バレるまで」が勝負なのだ。しかし、これが実に巧妙に、口惜しくも歯がゆいところだが、功を成している。例えば、その証左のひとつが民主党政権だ。こんな政党、日本の有権者が「考えれば」終わりだ。「税金を納めない総理大臣」がおかしいなど、腕立て伏せをしなくてもわかる。


「嘘をつく」ためには「本当のこと」も混ぜながら「数多く」吐く必要がある。だから、日教組の「せんせい」たちは懸命に教えたがるのだ。広めようと深めようとする。そのほうが「次につく嘘」が楽になる。「大きな嘘ほどバレにくい」とはよく言ったものだ。どこのだれが「学校の先生たちが子供たちにウソを吹きこもうとしている」という広大な話を信じるだろうか。目の前にあるハンバーグやビールが美味しいのに「日本は侵略されるぞ!」と聞かされても、腹が膨れたらふかふかのベッドで眠るだけなのだ。

勤め人だったころの「社長マン」もそうだったが、まさにもう「ゴルフ始めました」みたいな若い人を見ると、完全にプロゴルファ気取りだった。社長マンとタイガーウッズと無理矢理比べたら「白人から差別されている」ということと、質はともかく「オンナ癖の悪さ」しか共通事項は無いはずだが、ともかくグリップがどうの、フォームがどうしたとやり始めていた。ま、こういう類の人はゴルフに限らず、相手が知らない、とみると、ともかく、自分の知識を詰め込もうとする。それが間違っていようが、嘘であろうが、だ。

「社長マン」には「自分のことを凄いと思って欲しい」とか「舐められるのは嫌だ」くらいしか動機は無いが、これが反日売国勢力となれば話は別で、そこには明確な目的と悪意が存在する。意図的に「スコアが出ないようにしてやる」と教えられれば、大概のプレイヤーはゴルフの上達が困難なものになろう。教える側の彼らは「上手くなられては困る」のであり、その理由もちゃんとあるのだ。

だから、次々と人間の尊厳を捨ててまで嘘を擦り込み続ける。そうしないと(今更、ちゃんとすると)、己の倫理観や道徳観なども崩壊するからだ。覚醒剤を続けることに似ているかもしれない。人生を楽な方に流されて、安易に騙され続けることを選んで、思考を拒否して呆けていた時間が長いほど、それを取り戻すには苦痛が生じる。名のある学者やテレビで偉そうに言い続けてきた人なんかは無理だろう。そんな勇気があるはずもない。無理矢理でも正当化し、都合の悪いことは見ない聞かない知らないでやり過ごすしかない。痛みでショック死する可能性もある。ある意味、彼らも必死である。




今のところ、ぜんぜんそんな気はないが、私はゴルフを始めることができる。教えてくれと頼むことができる。それこそ、私が木製のドライバー一本だけ用意して「わいはこれで十分や、ワイは猿や!プロの猿や!」と言っても許される。だって、知らないんだから。

しかし、もし、今までの私がプロ気取りで語っていたとすればどうか。テレビや新聞で、散々威張りながら「ガチコメ・レッスン ホールインワンはこう打つ」などの著作を出し、その筋では有名な人物となり、それで金を稼ぎまくっていたらどうか。

とても、「今更、すいません、ウソでした、ぼく、何にも知りません」とは言えないのである。遺書にも書けないかもしれないw

だから、

「まったく、知らなかったことでありますから・・・」

が楽である。そのまま、がいい。そして、「反日」はスポーツではないから試合でバレることもない。そこがホンマもんのアスリートとは違うところだ。その代わり、長く、そして深く、己さえも騙しながら嘘は膨らんでいく。誰かが断罪してあげなければ、その魂は救われないだろう。これは嫌味や皮肉ではなく、とはいえ救う気も許す気もないが、そういう連中は本当に気の毒だと思う。せめて、生きている間に死ぬほどの恥をかくことができますように。

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