首相、異例の呼びかけ「いじめられたら…」(読売新聞) - goo ニュース
<野田首相は16日のフジテレビの番組で、大津市立中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとされる問題を受け、「いじめられている子にぜひ伝えたいことがある。あなたは一人ではなく、あなたを守ろうとする人は必ずいる。誰でもいいから相談してほしい」と異例の呼びかけを行った。
首相は番組の中で、いじめについて「とても恥ずかしい、卑劣な行為だ」と断じた一方で、「そばにいる人が見て見ぬふりをしないことが一番大事だ」と語り、皆で解決することが不可欠だとの考えを強調した>
私が気持ち悪いと思う著名人の中に「森永卓郎」がいる。こいつはやっぱり「虐め」られていたようで、その経験を朝日新聞に書いている。<いじめられている君へ>がそれだ。
実にくだらぬ、なんでもない話だが、要すれば自分はデブで勉強が出来ないから虐められていたと。海外で暮らしていたから日本語もアレだったと。それがある日、ビー玉で遊んでいたら虐めっ子に当たったと。サッカーをしたらゴールを決めたと。それで虐められなくなったのだ、ということだ。<いじめられている君へ>伝える言葉としては<ビー玉やサッカーの「偶然」がなければ、いじめは続いていたでしょう。周りの子はよほど強くないと、いじめられっ子を助けてあげられない。本人が反撃し、もがくしかないと思います。返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだと、いじめはどんどんエスカレートします。相手と目が合ったときに「ふんっ」って、やるくらいでもいいんですよ。(経済アナリスト)>ということだ。
最後の「経済アナリスト」はオチだろう。森永は小泉改革に際して「1ドル50円台になる」と言い「原油高」になって「日経平均5000円台になる」と言っていた。本気で思っていたなら救えないが、森永の名誉のために解釈すると、嘘でも何でもついて民主党を応援したかった。また、例のリーマンショックの際、13000円台になった日経平均株価をして「いまがチャンス」と連呼していた。株を買っとけと。しかしながら周知の通り、日経平均は7000円を割り込んだ。それから1年以上、8000円前後で推移した。騙された人は自業自得だが、町で見かけたら「雀の死骸」でも喰わせてやればいい。
私がびっくりしたのは「オチ」の少し前の言葉だ。
<本人が反撃し、もがくしかないと思います。返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだと、いじめはどんどんエスカレートします>
ということだが、良いか悪いかを問う前に、それをお前が言うのか、となった。森永は「日本丸腰戦略」の提唱者だ。勝間和代との対談で、仮に中国に侵略されて国がなくなってもいい、との発言がソレだが、後世の教科書に<昔、日本という心の美しい民族がいました>とあればいいじゃないかと言った。暴力で反抗するより国がなくなったほうがマシだと。
自分はビー玉投げておいてそれはないだろう。虐めの加害者がエスカレートするなら、国際社会、とくに支那などというところは「侵略して国がなくなるまで」やるのが現実だ。チベットや東トリキスタンをみるまでもない。支那は少々、反撃してもしなくても同じだ。憲法9条が素晴らしくて、非暴力の無抵抗を日本人に押し付けるなら、虐められている被害者にも、さっさと自殺でも何でもして「昔、心の優しい子がいました」と誰かに思い出してもらえばいいと書け。こういうのをダブルスタンダードという。卑怯の極みだ。
―――さて、話は変わるが、先日、妻と倅を連れて福井県に泳ぎに行った。「鯖街道」を走っていると滋賀県大津市を通った。車内では「虐め」の話が出た。私はほとんど黙っていた。運転していたから、ではなく、言葉に慎重になった。「虐めはダメだな」とか「周囲のクラスメイトも見て見ぬふりはよくないな」とか「学校は無責任だ」とか言っていればよいのだろうが、どうしても軽く発言する気になれない。最初に言っておくと、とくに被害者のことを想うと・・・というセンチな理由からでもない。中学生の頃の倅が実際に被害に遭っていたから、というわけでもない。いまではネタにして笑っているほどだ。
運転中の車内だからプライベートな空間でもある。また、一緒に乗っているのは家族だから、そこで「加害者は殺すべき」とか言っても問題ない。しかし、なにか適当な意見を言うのは無責任なような気がして、私は考え込んでしまったのだった。もちろん、私なりの意見というか、個人的な価値観はある。だから倅の場合でも、私は私の信念に基づいて行動したし、その結果についても納得していた。学校、家族、加害グループの主犯と共犯、それからその親らについても個別具体的に対応した。いろんな覚悟もした。
それくらい「重たい話」であるはずだが、この国の総理大臣は人情味を演出したいのか、今回の滋賀県大津市の事件に限りコメントをしている。いままで、この国でも「虐められて自殺した」という子供はたくさんいるが、タイムリーなこと、話題になっていること、などを勘案して「一国の総理」が声を詰まらせて何か言っている。浪速の剛腕の二番煎じだが、まだ、橋下市長のほうがペラペラやらないぶん、ちょっとだけ上手かった。
誰にでも言えそうな浅薄なコメントだが、野田総理は少しヤバいことも言っていた。
<そばにいる人が見て見ぬふりをしないことが一番大事だ>がソレだ。私はこれはおかしいと思う。そばにいる人、つまるところクラスメイトなどのことを指していると思われるが、この意見は一般論であるも「一番大事」なのでは決してない。虐められている子供がいるクラスメイトの諸君は、どうか、こんな無責任な意見を真に受けないでほしいと思う。
「友達が虐められていたら見て見ぬふりはするな。助けてやれ」は、せめて親だから言える言葉だ。そんな義務はないし、それは危険なことだ。森永ですら<周りの子はよほど強くないと、いじめられっ子を助けてあげられない>と知っている。ヤンキー先生こと義家弘介氏は「ひとりじゃ無理でも5人集まれば虐めを止められる」と言っていた。つまり、誰かが「虐め」を目撃、これは間違いない、遊びでも何でもない、校内で犯罪行為が行われていると判断、それを教師や親や警察に相談するのもよろしいが、大人は用を供さない可能性もある。そこでクラスの雰囲気、クラスメイトのパワーバランス、グループの軋轢、被害者と加害者の人間性や交友関係などをよく知る者が呼びかけ、数人以上(少なくとも加害者グループの人数以上)を揃えて指弾する。お前ら、直ちに止めないと、大きな問題にするぞと。もしくは、力で来るなら力で潰すぞ、と具体的な提案が出来る。
しかしながら、単なるクラスメイト。同じ子供にそれが可能かどうか。多くの場合は「見て見ぬふり」で保身する他ないのが普通だ。その点、親は親の責任、オノレの子育て理念、人間形成の指針として「そんな人間になるな」と育てることもいいだろう。
事実、倅は登校拒否に追い込まれた「とある虐められっ子」と遊んでいた。倅は学校が終わると、その子供の家に遊びに行き、私が買い与えたゲームソフトなどを持って行った。相手の母親からも感謝の言葉を頂いていた。倅は「学校においでよ」とは言わず、ただ、一緒にゲームして遊び、我が家でどこかに遊びに行く、となれば「連れてきてもいいか」と頼んできた。倅が標的になったのはそれが原因だ。ガリガリの体ながら「警察官になって町の治安を護りたい」と言っていた倅のことだ。虐めなどするような卑怯者、怖くもなんともなかったと思われるが、倅をそんなふうにしてしまったのは私だった。
森永は「ビー玉投げたら虐められなくなった」そうだが、我が倅は主犯の悪餓鬼の顔面に一撃入れ、ぶっ倒したら親が出てきて妻は学校に呼び出された。いまの阿呆餓鬼は素晴らしい人権教育のお陰で被害者に回るのが得意となっている。妻は学校で顔面を腫らした主犯の餓鬼、それから太った母親に頭を下げたが、それから半年後、その親子は我が家のリビングで頭を下げて泣いていた。こいつらは倅を標的にして、ゲームソフトを「借り」てから売り飛ばしていたからだった。手口は卑怯千万、主犯の餓鬼と取り巻きは「壊れたゲーム」を倅に貸し、それの弁済を迫るというものだった。つまり、倅の罪悪感や正義感を利用する。暴力で思うがままにするには骨が折れる。恐怖も感じていないとなれば、こういうやり口があるということか。阿呆餓鬼ながら、その観察眼には恐れ入ったモノだった。
また、上記以外にも<そばにいる人が見て見ぬふりをしないことが一番大事だ>などという無責任、且つ、浅薄な一般論にはふたつの弊害も考えられる。ひとつは「たかが虐め」だという認識を広げてしまうことだ。以前の記事で、私は「通り魔に立ち向かえ」と言う人はいないと書いた。相手は犯罪者だ。普通は「逃げろ」となる。クラスメイトの「見て見ぬふり」は他人に関心がない、というだけではなく、自己防衛も兼ねている。通り魔が走ってくるとき、誰かを逃がすために大声で「止めろ!」と叫ぶような真似をしろと言えるのか。所詮は子供のヤル程度のこと。どこにでもある「いじめ」だと軽んじるから「見て見ぬふりするな」などと言うのである。
もうひとつは教師や学校の免責になる。クラスメイトの誰からも情報がなかったなら、教師が気付かなくても仕方ないじゃないか、という論調になる危険がある。一国の総理が「見て見ぬふりは止めましょう」と言った。これはまさか「見つけたら虐めっ子に立ち向かいなさい」というわけでもあるまい。普通は「見つけたら先生に言いましょう」だとわかる。ならば、クラスメイトが自分を守るために黙っていたとすれば、それは教師の責任における優先順位が下がることを意味する。一番悪いのは加害者、その次は学校や教師ではなく、クラスメイトだということ。これは、とんでもない話だ。
左巻きのくるくるぱーは、相手が侵略国で反日国であっても「話し合いましょう」と言う。核弾頭ミサイルを並べて日本に向けている国と「友好」を言う。日本人を拉致して返さない独裁犯罪集団と「国交正常化を」とかやる。ならば、たかが人間の阿呆餓鬼。「虐めの加害者」相手にこそ「平和的に話し合いましょう」と言うべきだが、追い詰められるか弱き子供には「反撃」とか「もがけ」とか言う。可哀そうだとは思わんのか。
それに学校の「虐めっ子」にすら通用しない「話し合い」とか「友愛」が支那朝鮮、ロシアに通じるはずもないから、日本はずっと虐められてたかられ続けている。チベットも東トリキスタンも、ずっと日本国は「見て見ぬふり」ではないか。支那に対してジェノサイドは止めろ、ホロコーストをやめろ、とすら言えぬ国の総理が「虐められている子供」に相談しなさいとは笑わせる。いま、まさに民族が殺されているんです、と相談に来たチベットや東トリキスタンの人、主権が脅かされているんです、と相談に来たモンゴルや台湾の人に何かしたのか?「見て見ぬふり」をし続けているではないか。
ま、ともかく、学校はさっさと人権教育などという不気味なことをやめて、道徳教育を復活させるべきだ。そうすれば「虐め」などをする不届き者は、ちゃんと世間から成敗される。ついでに日教組や反日マスコミ、民主党議員なんかの不道徳な輩も刀の錆にされる。日本の子供が元気なる。良いことばっかりだ。
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