忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「韓流おばさん(本物)」にヨボセヨ

2012年03月15日 | 過去記事

今年の終わり頃に「福祉住環境コーディネーター」の試験を受けようと思っている、3級を飛び越して2級を受けてみようと思うのだが、と妻に言ったら「ふぅ~ん」という反応だった。今年は施設推薦で社会福祉主事も受講するから、不惑を過ぎてまた、何かと勉強できるのが嬉しい。私の場合は現場経験が1年と少しだから介護福祉士はまだ受けられない。もちろん、この仕事を5年続けているなら「ケアマネージャー」も取るつもりだ。どれも大して取得が難関という資格ではなく、少しの金と時間、あとは「その気」があれば誰でも取れる資格だが、不謹慎を隠さず言うと、まあ、ヒマ潰しのようなもんだ(笑)。

隣では倅が「特製・鳥の照り焼き丼(ガチコメ風)」を喰っていた。最近、ふと気がつけば1週間の半分以上、私が夕食を作っている。妻には「しいたけスパゲティ」を作った。また、私の晩酌用の「マグロの刺身」があったので、それを少しだけ失敬して「プチマグロ丼」も作ってやった。妻はこの(ごはん100グラム程度の)「プチ丼シリーズ」がお気に入りだ。米のメシを喰わない妻に、なんとか喰わせるため、いろいろやっていたらシリーズ化した。

倅は鶏肉にかぶりつきながら、自分も中国語検定3級を受ける、と言ってきた。瞬間、私と妻から「この支那人めが!」と虐められていた。妻からは「中国人に産んだ覚えはない。そんなに中国人が良いなら中国に行け。このベトナム人」と無茶もやられていた。しかしまあ、旦那が在日、長男がベトナム人なら、フィリピン人である妻の怒りも理解出来る。それにしても、中国語検定3級といえば、それは「日常会話ができる程度」の実力が必要だ。認定基準には「学習時間200~300時間。一般大学の第二外国語における第二年度履修程度」とある。倅の場合は「第二外国語」として支那語を選択しているわけだ。

そして夕飯時の話題は映画の話から宇宙の話、それから死生観で議論になり、必然的に「ペットの話」へと移行する。先日、倅も含めた家族3人(娘はトカゲ星人に連れ去られている)で行った「妻お気に入りのペットショップ」の話が出た。娘の家から戻る途中、妻が発作的に「サーティーワンに行く」と言い出したのが始まりだ。そのアイス屋の隣にあるのが、そのペットショップになる。その店は犬猫だけはなく、フクロウやサル、ヘビや熱帯魚、アルマジロやらなんやら、いろんなペットが置いてあるから妻が喜ぶのだった。

そこに白人の女の子がいた。4~5歳くらいか。コレも売っているのかと思ったが、どうやら客だったらしく、シガニー・ウィーバーを綺麗にした感じのような母親と一緒にいた。私と妻は小さいサルを観ていた。倅はたぶん、どうせ虫ケラでも観ていたと思う。すると、その女の子もサルのところに来た。ガラスに張り付いて嬉しそうにサルを見ている姿は万国共通、白でも黒でも子供に罪はないということで、まあ、愛らしいモノだった。目が合ったから在日スマイルで返しておいた。女の子は少し照れながらも笑った。

そこにウィーバーが来た。私が軽く会釈すると、映画のような笑顔を浮かべながら「コンニチハ」と言ってぺこりと頭を下げた。それから娘に何か言って、我ら夫婦に「えきゅすきゅーずみー」と小さく残して立ち去った。正直、感じよかった。

その店は広くて2階建てだ。我ら夫婦は「りーちゃん&むーちゃん」のオヤツなどを買うため、小さなサルに別れを告げて1階に下りた。倅はたぶん、どうせカメでも観ている。

ペットフード売り場には先ほどの白人親子がいた。今度は2メートル近い白人男性、トム・クルーズを営業マンにしたようなのも一緒だった。たぶん「パパ」だ。この家族も犬を飼っているのだろう、犬の餌売り場で楽しそうにやっていた。狭い通路をすれ違う時、私が妻を引き寄せ、ちょっとすんません、と通ると、その「パパ」も「えきゅすきゅーずみー」と言って娘をどけた。

そこに地元の子供連れが入場。小学生くらいのオスの餓鬼が走り回る。兄弟なのか、もうひとりと追いかけ合いをする。母親がいたようだが、これがダンプ松本を少しだけ痩せさせた感じのアレで、お約束通り、走り回る餓鬼を放置、素知らぬ顔だった。

兄弟は何が面白いのか、大爆笑しながら狭い通路を走り回る。ぶつかって商品が通路に落ちる。ペットケースを叩いて回る。ゲージを揺らして大騒ぎする。白人の女の子はウィーバーの横に張り付いていた。トム・クルーズは長い体を曲げて商品を拾っていた。

2回目、ゲージを揺らしたときに従業員が動いた。ペットが驚くから止めてね、みたいなことを言っていたと思う。それでも兄弟は無視。2階にいた小さなサルよりもサルのように、うきゃうきゃと走り回っていた。何を飼っているのか知らんが、ペットをリードにつなぐ前に、己のクソ餓鬼を縄で縛っておけと腹が立ってきた。このまま我ら夫婦の横を走り抜けようとするとき、どちらでもいいがひとりをさっと担ぎあげ、あるいは両方を肩に載せ、そのまま迷いもなく2階へと駆け上がり、ピラニアの水槽に放り込むか、蜘蛛が蠢く大きな虫カゴに頭を突っ込ませるか、毒々しい色のヘビのいる水槽に手を入れてやるか、と想像していたら、妻の買いモノが済んだとのことで引き上げた。白人家族は帰ったのか、もういなかった。なにやら小恥ずかしい感じが残った。

帰りの車中、ちょっと興奮した私が「日本人は“えきゅすきゅーずみー”を忘れたのかね?」と文句を言った。倅は笑っていたが、妻は画期的な返答をした。「アレは中国人。それか朝鮮人。それか中国人になった日本人」―――なるほど、と思った。



日本人の「支那人化・朝鮮人化」は深刻である。


「エスケイジャパン」という家電メーカーの社長、杉弘行というのが「河村発言」で謝罪した。南京大虐殺記念館で<河村市長の発言に、長年、日本と中国の友好交流に力を入れてきた日本の企業家たちはひどく心を痛めた>とのことで、100万円を寄付、日本の市長が南京大虐殺はなかった、とか言ってすいません、日本人として謝ります、と言った。

もちろん、この「エスケイジャパン」というのは、元を質せば「ハイアールジャパン」だ。支那の家電メーカーである。「日本企業の社長が謝罪して寄付金も出した」と支那人は報道するが、こんなのは根っからの支那人なのである。日本国籍であれ、政治家や経営者、メディア関係者などで「支那に関連する既得損益」がある者は容易に支那人化する。「日本の歴史」やら「祖国の誇り」などはどーでもよく、そんなことに固執して眼前の商売の種を失うことに耐えられない。そんなの合理的じゃないと馬鹿にする。だから平然と、ある意味ではスマートに「日本が悪かった」と言いながら清ましている。

感覚的には「Excuse me」だ。支那語では「不好意思」が近いのだろうか。日常生活で使用する「悪いね」くらいの意味だ。そうしていれば相手もそうそう悪いようにはしてこない、と考えている。そして自らの「合理性」を正当化するために、相手の言い分は1ミリも疑ってはならない。南京大虐殺であれ、朝鮮人強制連行であれ、支那朝鮮と商売をする、あるいは支那朝鮮に便宜を図ってもらうことで成り立つ日本人は、それらが虚構だったとバレたら自己否定せざるを得ない。「騙されていた」と被害者面するには得たモノがあり過ぎる。彼らの「合理的」は瓦解する。薄汚い守銭奴の正体が露呈される。彼らそれを恐れる。

だから心の底から騙される。思考を委ねる。明白な矛盾点があっても取り上げない限りは「ない」のと同じだ。見なければいい。知らなければいい。それから「バレる速度」よりも速く嘘を流布させる努力をする。大きく長く、いつの日かその大嘘が巨大化して既成事実化するのを願う。これは20年前までは通用していた。実際に効果抜群だった。

職場の「韓流おばさん(本物)」がそうだ。以前なら自称、韓流の番人「社長マン」もいた。これらは、先ほどの「支那朝鮮に関連する既得損益」に絡む連中の大嘘にやられている。もちろん、とくに韓国の歌が好きならそれでいい。韓国語が好きだ、も勝手にすればいい。アリランも勝手に踊ればいい。キムチも漬けるがいい。しかし、だ。

これらの「被害者」には共通する矛盾点がある。

先日、職場での雑談に参加していると「韓流おばさん(本物)」がうっかりした。つまり、私がいるのに「韓流広報」という仕事をした。誰も韓国の話などしていないのに、突然、独り言のように「わたしは日本の歴史は嫌い。でも韓国の歴史はハマってる」とやりだす。誰かが問う。「なんで?どうして?」

曰く「日本の歴史は暗い。面白くない」とのことだ。いま見ているナントカいう韓国歴史ドラマは最高に面白くて、連休などは録画を観ているだけで終わってしまう、ということだった。ともかく、いま、韓国がブームで韓国がすごい、韓国を知らないなんてもったいない、韓国語で口説かれたい、韓国人と結婚したい、韓国人になりたい、とやる。

私が意地悪く「韓国ブームって実在するんです?」と問うと絶句し、えぇ?本気で知らないの?と大袈裟に驚き、はい、と応えると体を後ろに仰け反らせた。

凄い人気だそうだ。ナントカいうのとカントカいうのはチケットが取れないらしい。しかし、チケットが取れないくらいなら「綾小路きみまろの毒舌ライブ」も取れない。どんなアーティストでも芸人でも好きな人は一定数いるし、日本にもそのレベルのタレントや歌手はたくさんいる。ジャニーズが支那朝鮮に行っても同じようなことになる。

その証拠に他の若い職員は知らない。「韓流おばさん(本物)」がすらすらと挙げる歌手も俳優もユニットも知らない。「韓流おばさん(本物)」は言う。だから教えてあげているのだと。私の疑問は抑え切れなくなる。実に合理的ではないからだ。

私はもう一度聞く。「韓国ブームはあるんですよね?」

「―――ある」と言う。それもすごい人気だと。

私はこう聞かざるを得ない。「じゃあ、なんで、彼ら彼女らは知らないんです?」


少し前、家政婦がミタのかミルのかはともかく、日本のテレビドラマが予想外の高視聴率を取った。この広報はテレビや雑誌などのメディアだけだった。もちろん、放映されてからは口コミでも広がる。私は見ていないし見る予定もないが、妻などはよく知っていた。このドラマのあらすじ、主演俳優、制作会社、放映時間などを職場で連呼する人はいただろうか。もし、いたとすれば「知ってるよ」でお仕舞いだったはずだ。

その場にいた職員らは全員が「家政婦のドラマ」を知っていた。観た、という言質もとった。頼みもせぬのにモノマネを披露するのもいた。邪魔臭いからカタカナ表記で勘弁して欲しいが「エグザイル」も既知であった。「レディ・ガガ」もそう。妻は「エグザイル」のライブに行くし「スマップ」や「嵐」とかも好きだ。家族で知らないのは私、それから倅となる。つまり、テレビタレントでいうなら妻がいちばん詳しい。


「知る人が少ないモノを伝えなきゃならない、というのはブームの反対側にあるからです」


若い職員らに問う。「主演の松嶋菜々子の誕生日知っている人います?」

知らない、と言う。「他の代表作は?」も知らない。私が「とんねるずのコントに出ていたじゃないですか!!」と言っても知らない。あの「くねくね」を知らない。それでも私が詳しくない「家政婦のドラマ」はとても知っている。モノマネをする。

そして私は驚かない。仰け反りもしない。だって、それが「ブーム」というものだ。「韓流おばさん(本物)」や「社長マン」が「こんなに流行っているのに!!」となるのには、実のところ「理由」というものがある。それはずばり「違和感」と「不安」だ。

大して流行ってないのだ。それなのにメディアの扱いは「大ブーム」だ。感性の優れた若い連中は反応しない。「ふぅ~ん」ってなものだ。「ウザいな」というのも少なくない。しかし、感性が鈍化した、あるいは思考経路の短い中高年は慌てる。だってもう、引き返せない。「なんだ流行ってないのか」と言うにはお粗末すぎる不様がある。踊らされていた、と自覚せねばならない。安易に飛びついていた、と恥ずかしい告白も必要となる。


民主党が政権を盗った構図と似る。大嘘の歴史認識を振りかざす連中の心理状態とも似る。


いい年したわたしですが、実は自分の頭で何も考えてません、良いか悪いか、美しいのか醜いのか、美味しいのか不味いのか、カッコイイのか悪いのか、正しいのか間違えているのか、安全なのか危険なのか、流行っているのかいないのか、ぜぇ~んぶテレビでやってました、と告白するには相当な根性がいる。

コレを国ごと体現するのが支那朝鮮だ。引き返せない。後戻りできない。

いまさら「南京大虐殺は捏造でしたアル」は言えない。日本人は「ふぅ~ん」でお仕舞いだが、多くの支那人はそうはならない。「強制連行された慰安婦なんていませんでしたセヨ」もタダでは済まない。アメリカもそうだ。「原子爆弾投下は黄色いジャップだったからやった。威力も観たかった。皆殺しにしてパーティするつもりだった」も言えない。ロシアもそう。「北方領土は火事場泥棒。北海道も盗るつもりだった」とは言えない。認められない。

しかし、日本国内で「罪なく騙されている」人は救える場合がある。話せばわかるところ、にいる人も少なくない。強調しておきたいところだが、これは柿本篤弥氏が言う「何を言うかよりも誰が言うか」を前提にしている。粗野な「朝鮮人はゴミだ!」とか「支那人は犯罪者だ!」では1000年経っても通じない。どころか、日本人の民族性を考慮するに逆効果だ。わかってほしい、知ってほしい、伝えたい、というなら、先ずは資格を得よ。




韓国の歴史ドラマをして「優雅で羨ましい。美的感覚が日本人とは違う」とホルホルする「韓流おばさん(本物)」に「乳出しチョゴリ」を言った。見モノだった。職場の同僚としては信頼関係も構築、互いに仕事は認め合う仲、そろそろ良いだろうとやってやった。

また「韓流おばさん(本物)」は存外に真面目であり、日誌や報告書の作成をする際にも公然と私に例文を教えてくれと来る。ちよたろさんの報告書はすごいと。つまり、ちゃんと「評価」ができる人物なのだ。「韓流」以外は普通のオバサンだ。なぜだか最近、必死に勉強して介護福祉士も取得した。福祉業界で頑張るおばさんなのだ。

だから「韓流おばさん(本物)」は真っ赤になって怒鳴るなどの行為には出ず、なぜだか落ち込んでしまった。私が言う「乳出しチョゴリ」に対して「それは嘘だ!」とやらなかった。なにかあきらめたように、ある意味では「潔く」というか、嗚呼、ついに「こういうときがきたか」という諦観があった。ならば私も武士の情け、真剣で斬りかかるわけもない。だからソフトに「あったんです」と続けた。「韓流おばさん(本物)」は静かになる。




18世紀ごろです、朝鮮半島は男尊女卑の強いところでした。だから「長男を生んだ」という証に乳房を露出させたチョゴリが「流行」しました。これは1950年、朝鮮戦争が始まるまで続きます。日本の敗戦が5年前、1945年ですからね。それ以降もやってたんです。

それに「韓半島は半万年」と言いますが、これは衛氏朝鮮から数えても2200年です。それもずっと属国でした。韓国の歴史ドラマでは優美な衣装が出てきますね。アレはウソです。朝鮮半島には長らく「顔料」がありませんでした。庶民が着るチョゴリはぜんぶ「白」です。これはね、あっても着れないんです。差別社会だからです。それに李朝では女子が宮中に出仕すると、王様との擬似婚姻関係になります。勝手に外に出たら処刑です。だから「チャングム」もウソです。日本では「史実。韓国では昔から女性も医者になれた!」と紹介されることがありますが、脚本家のキム・ヨンヒュンは「100%フィクション」だと言ってますね。出てくる料理は「将太の寿司」という日本の漫画からヒントを得たと。

つまりね、韓国の歴史ドラマが好き!は結構です。しかし、それを「史実だった!」は止めた方がいい。水戸黄門が「皇潤」飲みながら旅をして、最後に「エバーライフ!」と言っているレベルです。それを私が「日本とは昔から飲むヒアルロン酸!1400万箱突破!」と言っていたらアレでしょう。




―――以外にも興味深そうに聞いていた。反論する気配もなく、普通に、いつものように感心しながら聴いてくれた。「韓国が好き!」は否定する必要がない。「中国に行きたい!」も勝手にすればよろしい。でも、何が嘘で、何がダメなのか、は誰かが説明せねばならない。嘘は必ずバレるから、いつかは知るときも来る。そのときの「勇気」を奪ってはならない。認める勇気を殺してはならない。馬鹿にしたり、勝ち誇ったりする理由は全くない。

この「韓流おばさん(本物)」にも長男がいる。高校生だという。私は修学旅行の際、その息子さんがソウルの日本大使館前に建てられた「従軍慰安婦像」の前で土下座させられるとすればどうか?と問うた。「韓流おばさん(本物)」はショック状態だった。私は静かに「その場所ではないですが、ハルモニの家などで実際にさせられている学生はたくさんいます。テレビではやりません」と付け加えた。それから少しだけだが「反日教育」やら「慰安婦」にも触れた。前者は「ある」し、後者は「ない」のだと説明した。

そして、韓国が好きならばこそ、ちゃんと知らねばならない、とも言った。嫌う必要はない。どころか今度、みんなで朝鮮料理を喰いに行こうと。御馳走しますよと。知っている店があるのだと。私は大好きだと。

それでも違うモノは違う。

「Excuse me」でも「不好意思」でも結構だ。「ちょとすいません」でも「ヨボセヨ」でもいい。そのあと、静かな笑顔で「それは違います」と言える日本人が増えてほしいものだ。

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