今年になって最初のほう、週刊現代の見出しに唸った。
「100歳の女性はなぜコロナで死んだのか? 「真面目な高齢者」が次々に感染する理由」がそれだ。中身も面白くて、要約すれば「徹底的に感染対策はしていた」。「(散歩くらいしか)外出はしていない」。ケアする職員なども「家族とすら一緒に食事をしない(などの対策を講じていた)」。「それでも感染した。経路は謎(不明)」。で、最後「100歳代の女性たちの死は、この国の危機的な状況を象徴している。」で〆る。さすが、である。
記事中で推理もする。宅配のボールペンじゃないか、ビニールシートが頭に触れたから、段ボールに付着していたのか、トイレットペーパーにウイルスが、みたいなことだ。ご苦労様である。さすがはビートルズが来日した際、見出しに「『私はビートルズの覆面護衛官だった キモノ・ガールを求めた四人の紳士の東京の夜』(『週刊現代』7月14日号) 」と下衆を書くだけはある。
4人が宿泊するホテルの警備会社が臨時募集していた、そこに記者が応募して「奇跡的」にホテル内に侵入、その場で生の記事を書いた、とのことだった。はいはい、そうですか、それはすごいですね、という他ないが、たぶん、私が当時生きていれば、間違いなく購入して馬鹿にしている。さすがである。
ま、この西日本新聞の見出しで思い出しただけなのだが、この中身も要するに「オッス、オイラ医者。風邪と変わんねぇけど感染力が強ぇから、このままだと重症者も増えっぞ。甘く見ンじぇねぇぞ」と書いてある。悟空でも2行で済む。諺なら8文字で済む。「風邪は万病のもと」(風邪はあらゆる病気のもとであるから、たかが風邪くらいと油断してはいけないということ )。
もう、そろそろ気づいている人も多い。
SDGsは全体主義だ。コロナのバカ騒ぎも一環だ。とりあえず、誰も逆らわない。つまり、ポリコレだ。表面だけなぞれば「良いこと」に聞こえる。「世界平和」とか「虐めをなくそう」と同じステージ。また、諺ついでに「羹に懲りてなますを吹く」があるが、懲りたのか懲りてないのか知らんが、そんなに羹でもなかったのに、次こそすごく羹だったらどうすんだ、と言われたら困る。一行矛盾だ。絶対など絶対にない、みたいになる。
ビートたけしが、どうせもう辞めるから、として「ただの風邪じゃねーか」とテレビで言った。ボケで一世を風靡した大物芸人がツッコんでいるほどだ。ボケているのは世の中だ。異常事態と言っていい。
少し逸れるが、例えば「虐め」と同じか。ないのか、と言われたら「ある」としか言えない。「良いことか」と問われたら「悪いことだ」と答える。「これをなくそうとする行動は正しいか」と言われたら「間違ってはいない」と思うだろう。しかしながら、この阿呆みたいなカラクリは単純で「虐め」を「地震」などに代えたらすぐにわかる。
それは自然災害じゃないか、虐めは加害者がいるだろが、という文句が左側から聞こえてくるので、一応、他にも書いておくと、例えば「職場の人間関係」。今も昔も人が職場を離れる理由、堂々の「第一位」だ。
悩んでいる人もリアルにいるだろうから、ちょっとだけ詳しく書くと、先ず、大人なら知っていることだが、職場の人間関係において「みんな仲良く」はあり得ない。「仲良く」の定義にもよるが、少なくとも、なんら軋轢もなく、摩擦もなく、誤解もなく、嫉妬もない職場というのは存在するかどうか。あるなら教えてほしい。「我が社はそうだけれども?」という人はいるか。
これも当たり前だが、職場に求められるのは仲良し関係ではなく、円滑なコミュニケーションだ。報告連絡相談が速やかに行われて、必要な指示命令が確認されて現場で確実に履行される。つまり、職場の人間関係を理由にして「悩む」ということは、夏が暑いとか、海が深いとか、空が青いとか、岸田が嫌いで悩んでいるに等しい。世の中には「致し方がないこと」のほうが多い。
そうなっているんだから仕方ない、というところから考えないと、とても心身ともに疲弊すると思われる。理想と現実でもいいが、そうしていないと「本来の目的」を果たせなくなる。これのほうが怖い。
例えば、不気味な都知事が「三密を避けましょう」とやる。そのニュースをみたあと、すし詰めの満員電車に乗って出勤する。みんな「これはいいのか?」と思っている。SRAS2型ウイルスは満員電車を嫌う性質があると判明しました、とWHOも言っていない。
飲食店に時短要請。私も経験者だが、場末のスナック経営などしていると、客が一人も来ない日もある。「ボウズ」だ。その日も2万円だか3万円、協力金がもらえる。働いている従業員も10/10、つまり満額の雇用調整助成金が出る。私の周囲での飲食関係者、それも個人経営でやっている人ら、あるいはチェーン店の会社員などは「緊急事態宣言」を楽しみにしている。
宣言、早く出ないかなぁ、とうっとりしている。若干、呆れて理由を問うと「働かずに金がもらえる、なんで嫌がるのかわからない」と応える。こんな奴隷根性、手の施しようがない。楽して金がもらえるなら共産党でも社民党でも応援するだろう。そこに「当然の権利」「あなたの命は尊い」などの文言で後ろ暗ささえ消してくれる。菅前総理が「自助」とか言っただけで、心根が疚しく、被害者意識が染みついているから、自分のことだと思って傷つく。
普通、朝も早よからえっちらおっちら、ふうふう言いながら働いている人はなにも思わない。「自助、共助、公助」とか言われても、普段からそう思って生きているから、なにを当たり前のことを、という感想しかない。
分断工作するなら程度の低いほうを操るに限る。ナントカとハサミは使いよう、だ。単なる風邪症状で仕事にも行かなくていい。みんな自分でなんとか、やっとの思いで暮らしているのに、それすらしないことを正当化してくれる。居酒屋で時短営業、とか言われても、そこで働くアルバイトなどは客も少なくて楽、早く帰れてラッキー、給料も減らないなら「宣言」が待ち遠しい。
類は友を呼ぶから、それを察している同じ穴の連中は人気取りに走る。連中はいまの権力と財力を確保、維持できるだけの票が欲しいから「直下型地震に相当」などとメディアでやって喜ばせる。ナントカとハサミ、ハサミじゃないほうを躍らせるのが仕事のメディアは利害が一致するから好意的に報じる。
居酒屋などでも稀に「馴染みのお客さんの顔が見れなくて寂しい」などという意識が高いのもいるが、そういう人間が今も昔も、その店や世の中を支えているのだろう。また、いまはまだ、そういう人が日本には多いから何とかやっている。「蔓防とか意味あんのか、いい加減にしろ」と言いながら仕事に行く。
そういう人は例えば「虐めはなくならない」と言う。対処法はいろいろあるが、大切なことは「自殺まで追い込まれないようにする」だ。初期に発見して対処することが肝要だ。日教組などはこれらに対する子供の「獲得免疫」を壊そうとしている。負ける子に配慮して競争させない、親がいない子もいるからとして運動会の昼飯を教室で喰わせる、などがそうだ。卒業したら親ができるわけでもない。しっかりと現実を受け止めて生きていく強さ、生きていく意味を教えるのが教育だ。
差別もなくならない。厳然としてある。これを「なくそう」という方向は間違ってはいない。間違ってはいないが不可能だと知ることで対策も講じられる。交通事故や火山噴火と同じく、地震や火事と同じだ。ちゃんと「訓練」をするだろう。「ゼロコロナ」とかいう阿呆みたいな理想論は意図的で邪悪な目的に資する行為である。いま、この国の政府にはまだ「風邪ゼロ」を目指しているのがいる。「火事ゼロ」「地震ゼロ」「津波ゼロ」と同じだ。知性ゼロだ。
無理を通すと理屈が曲がる。それは往々にして左に曲がっている。
熱があって咳が出て、鼻水が出てしんどいなら、PCR検査ではなく、熱いうどん喰って薬飲んで寝るとよろしい。それでも何日か治らんなら医者だ。
今も昔もそうだ。江戸時代の医書には「時気感冒」や「天行感冒 」という言葉が出てくる。インフルエンザだ。当時の川柳にも「はやり風邪 十七屋から ひきはじめ 」とかある。「十七屋」は飛脚問屋のことだ。流行り風邪が飛脚によって全国に広がることを言っている。名称もいまみたいに「武漢肺炎」とか不気味なものでもなく「お駒風」「お七風」とか、当時流行った浄瑠璃とかからきている。風情がある。
ウイルスも虐めも差別も、地震も火事も津波も、台風も大雨も火山噴火もだ。なくせはしないが「減らす」ことができるのもある。また、もっと重要なのは「備える」とか「回復する」などだ。いま、本気で減らしてなくさねばならないのは阿呆みたいなワイドショーと、国民に興味がない政治家などになる。
これらは意識次第で「なくす」ことができる。