忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

酒の中身はなんでしょう

2013年01月12日 | 過去記事



新年会の季節。今年の幹事もなぜだか私だった。左巻きのくるくるぱーの天下りが、必要以上のニコニコで問うてくる。「今回はどこの料亭で?」―――は?居酒屋ですが、普通の。

施設長は不思議な顔をして「送迎バスは?」とか不安がっている。みんな大人だ。現地集合、現地解散で何か不都合でも?と言うと「いえ、べつに」と不満顔。私は安心してもらおうと、それに予算が半分近くで済みます。職員も「季節の天ぷら」とか「3キレずつの刺身盛り」とか「鯛のあら」より「オーダー制」を喜んでます、ポテトフライが喰いたいとか。また、女性職員は「ブーツを脱がないで済む」からテーブル席を歓迎してます、それに前回の料亭、カクテルやらチューハイがありませんでした、ソフトドリンクはお茶かオレンジジュースかコーラ。どこの山奥かと思いました、とか説明すると去って行った。

実はもう一つ理由があった。今の季節の王道。鍋だ。

「他人と同じ鍋をつつくのはちょっと・・・」はいる。品の無いのは「自分の箸」を平気で鍋に突っ込んでくる。懐かしい社長マンがそうだった。自分の「喰いかけのビビンパ」とか「喰いかけのカルビクッパ」を回し喰いさせるのも思い出す。私が「喰いかけ回すと嫌われますよ」と本人に言って止めさせると、何人かの社員らがほっとしたのも覚えている。デリカシーがないのは浅薄な証左。こいつはずっと阿呆だった。

もちろん、そんなの気にしない、もいる。そして「気にしないVS気にする」ならば「気にしない派」が譲る他ないとも知れている。気にする人は気にする。それを気にするのがエチケットでもある。

過日の横須賀。とある大学教授の「深イイ話」には呆れた。この男性教授はボランティアから福祉に目覚めた、とかいう面白くない人だったが、若き頃のボランティア活動の際、ホームレスに炊き出しをしたのだという。そのとき、ひとりのホームレスが「口の開いたワンカップ」を差し出し、八分目ほど入った薄黄色い酒を、ほれ飲め、と言ってきたとか。

教授は悩んだ。だって気持ち悪い。でも、無下に断るとホームレスおじさんが傷つくかもしれない、と水洗便所のようにきれいな心で丁重にお断りしたのだという。それでそのとき、ホームレスおじさんが放った言葉が金言名句だったと感動する。

「わしゃ、あんたらの炊き出しを信用して喰った。あんたはわしの酒が信用できんのか」

がぃ~~ん。そうか、ボクは知らぬ間におじさんを差別していた。そりゃそうだ。おじさんらは見ず知らずのボクが差し出した炊き出しを嬉しそうに食べてくれた、それなのにボクはおじさんのくれたお酒を気持ち悪いとか、こんなの間違っているのさ!―――ということだった。つまり、阿呆か、となる。

一先ず、いえ結構です、はいいだろう。私だってそう言う。しかし、そのあと、ホームレスおじさんが「信用できんのか?」と説教くれたら「信用できん!」とはっきり言う。あんた、最近風呂に入ったのはいつのことだ?と問い詰める。そしてその酒は買ってきたのか拾ったのか、なにか足したのか作ったのか、というか、それはそもそも酒なのか、と連続して質問する。それから「次、また、その酒を飲めと言うなら、二度と炊き出しはせん。それを乞食の仲間に言うんだな」と決めて立ち去る。ふざけんな、ということだ。

数人のグループ学習。その「深イイ話」はその席、雑談の中で出た。隣の女性は大いに感心していたが、テキストは読むけど空気を読まない私は教授に問うてみた。味は覚えてますか?―――

「不味かったw」ということだった。グループには小さな笑いが起った。教授はメチルアルコールとか、あんな感じなんだろうと思った、とか有り触れた感想も述べた。黄色かった?には「薄黄色」と繰り返した。温かったんじゃ?には「うん、常温だった・・・?いや、寒かったから温かかったかも」。人肌くらい?「うん、そう」。酒の味は薄かったんじゃ?「うん、薄いと思った」。

それ、たぶん、半分くらいオシッコです。尿の98%は水分ですからね、意外と味も臭いもないんです。しかも放尿してからすぐ、新鮮なやつはね。あんまり臭くない。

そのグループには介護職も何人かいた。そういえばそうかも、と実体験からの意見も出た。教授は笑って「それはないよ~~」と言ったが、私が「その根拠」を尋ねると答えられなかった。

週刊誌記者の書いたホームレスのルポを読んだことがあるンです。仲間同士で「賭け」をしたりするそうです。ボランティアの女性とか、若いお兄ちゃんを狙って「あいつにションベンを飲ませることが出来たら500円。あと、その(廃棄)弁当をよこせ」とか。さきほどのホームレスおじさんの金言は出来過ぎの感が否めません。センセイが演出していないのなら、それはホームレスおじさんの「手」だった可能性があります。よく思い出してください、尿も体液です。もしかして、若干、薄い塩味はしませんでしたか?

そもそもよく考えてみてください。ワンカップに入っていたなら、それは日本酒でしたか?それならその日本酒はなぜ「そういう状態」だったんでしょう?おかしくないですか?

それにホームレスの人は焼酎を好みます。常温で飲めるし、でかいペットボトルに入れておける。味落ちもわかりにくい。そこに果物屋のゴミ箱から失敬したグレープフルーツ、みかん、なんでもいいですが、それを絞り入れて飲むと、これがまた、氷なんかなくてもそこそこ飲めるそうです。もちろん、彼らは日本酒でも何でも飲むでしょう。しかし、その「日本酒」はなぜ、薄黄色かったんでしょうか。なぜ酒の味が薄かったんでしょうか。なぜ「口が開いていた」んでしょうか。なぜ「8割ほど」だったんでしょう。そのホームレスが飲むところを見ましたか?

もし、それが日本酒だったとしても、そのホームレスのおじさんは「一口だけ」飲んでそのまま、カップを手に持った状態でセンセイのところまで歩いてきた。不自然じゃないですか?どの時点でセンセイをみつけ、どの時点でそれを差し上げようと思ったのか。

また、戦争映画じゃあるまいし、メチルアルコールは考え難いです。いわゆる「メタノール」と安モンの焼酎、入手しやすいのはどちらかを考えれば・・・それにメタノールは無色透明。だから、たぶんそれは違います。それにオシッコが入っていなかった、とすれば、その日本酒は相当、かなりの長期間、テントの中にあったとわかります。日本酒はたしかに黄色くなります。それから少しとろみが出て、甘く濃い匂いがします。飲むと驚くほど美味だったりします。いわゆる「古酒」です。しかし、その状態にしようと思えば、これは保存の仕方というモノがあります。でも、それは逆に「味が飛んでいた」わけですから、万が一、日本酒だったとしても蓋が開いたまま、ずっとホームレステントのどこかに放置されていた、とわかります。いずれにしても口にして安心できるものではありません。私なら喧嘩になっても絶対に飲みませんね―――



センセイは困ってしまったが、私はそのあと、もっと困った。話題を切り変えようと、私が社交辞令の範疇で「ところでセンセイ、お酒は好きなンですか?」と問うたからだ。

「いえ、飲みませんね。大学で誘われても飲みに行かない。嫌いなんですよ」

周囲は「ふうん」てなもんだったが、私はショックだった。御蔭でそのあと、ずっと考え込んでしまい、午後からの講義が頭に入らなかった。心の中で「阿呆だこいつ」と思った人から物事を教えてもらうほど苦痛はない。だから私も勉強ではなく、事務的に記録した。

本人に自覚はないが、明らかなる「逆差別」だった。常日頃、世話になっている大学の友人、上司や先輩、それから講義を受けている学生らと酒は飲まず、でも、ホームレスのおじさんがくれた怪しげなションベン臭い酒は口にする。これを差別じゃないと言うなら、阿呆臭い偽善丸出しのパフォーマンスだ。自分は心優しい人権重視のボランティア。若くて男前のさわやか大学生。福祉の観点からも弱者は放っておけない。キミもボクも同じ人間。日本国は平等に権利を尊重しなければならないはずなんだ。だって憲法に書いてある。

ちゃんと衛生観念のある人らが、ちゃんと市販されている食材を購入、調理し、それからちゃんと「火を通した」炊き出しを無料で配布しながら、ションベン入れたかもしれない不気味な酒と、同列で圧し付けてくるホームレスの屁理屈に付き合う精神的未熟が薄っぺらい。左巻きのくるくるぱーに見られる傾向のひとつだ。

べつに「未開の地」で「謎の部族」に接触したわけでもあるまい。それならその文化を否定するような拒絶は非礼に値するから、文明人としては接するなら受け入れる場合も考慮せねばならない。その中において牛の血を飲め、と言われたら鼻を摘まんで飲むしかない。しかしながら同じ国、同じ地域、同じ言語で暮らしながら、冬の寒空の下、自分らのために公園で炊き出しをしてくれているボランティア青年に「口の開いたワンカップ」を「飲め」と差し出す非常識こそ指弾されねばおかしい。「施し」を受けているという自覚がないから、若造よ、俺とお前はなにも違わない、として臭い酒を「なぜ飲まないのか」と説教しながら値打ちこいて出すのである。そこは「近づくな乞食野郎」とまでは言わなくても、すいません、とても飲めません、ごめんなさい、で十分。何を気圧される必要があるか。

だからこのセンセイは言う。ホームレスがいること自体、おかしいのだと。国は何をやっているんだと。重大な憲法違反だと。心優しいセンセイは、いま、我々はこうして立派な暖かい建物で勉強してますよね、昨夜はホテルで食事しましたか?それとも外食しましたか?みなさん、美味しいモノをお腹一杯食べて、あったかいお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠られたことだと思います、でも、その裏では寒い公園で、河原で、空腹を抱えながら震えて眠る人らがいるんですね、同じこの国で生きる人間なのに、おかしいと思いませんか?それを平等に、公平にするのが福祉の役割なんですね、とか語って悦に入った。

その前日、横須賀の飲み屋で「三崎鮪」を堪能した私は「ほっとけ」と思った。ではアレか、その席にそこらのホームレスを誘って座らせ、三崎鮪の造りでも用意し、熱燗でも奢れば福祉の観点なのか。大トロステーキもどうですか?とやれと言うか。知ったことか。こっちは自腹だ。少ない給料から税金を払い、貯金の額に戦々恐々しながら、孫に玩具を買った残りで細々とやっている。知ったことではない。

例えば、大阪のあいりん地区に毛布を送るボランティアがある。アレが「福祉の観点」だ。
先ずは緊急的措置、家をどうにかする前に毛布や寝袋を提供するわけだが、その毛布を受け取ったホームレスが「おまえは家の布団で寝るのか。おかしくないか?」と言ったら毛布を取り上げられても仕方がない。なぜか。「その線」を明確にしておかねば、いずれは布団で寝る人らが寝袋の生活を強いられるからだ。つまり、国が崩壊する。

あくまでも「施す側」の社会が壊れないことが肝要だ。どちらも寝袋なら、それは福祉ではなく、単なる協力、ルール、譲り合いの精神になる。それがその国のレベルになる。福祉もヘチマもない国が世界にはたくさんある。日本がそうならないためには「三崎の鮪」も喰わねばならない。1泊1万円のホテルにも泊まらなければならない。ホテルの近くにみつけたアイリッシュパブで酒も飲まねばならない。それをいちいち「申し訳ない」とか「おかしい」とか思う必要はまったくない。飢えて乾いて死にそうではない限り、ホームレスから怪しげモノを喰えとか飲めと言われたら断ってもいい。付き合う義理はない。

福祉の学校では往々にして、オムツさせたまま排泄させたり、目隠しして弁当喰ったり、片足と片腕を紐で縛って歩いたりする。これらは「相手の身になってみましょう」という授業の一環だ。どれほど不便で困るのか、を学びましょう、ということらしい。私も車椅子に乗せられて、学校の近くの公園まで散歩に連れて行かれた。ね、怖かったでしょう?とか言われる。べつに、楽しかった、とか答えるのもいるが、根本的に「いらない時間」だと思っている。「相手のことを考える」と「相手の身になる」は圧倒的な差異がある。前者は必要、後者は欺瞞だ。逆立ちしても「相手の身になる」など不可能。なったときは「本当に」そうなった時のことだ。

大事なのは「相手のことを考える」という能力、そしてそれはお互いに、だ。

こんな気心もしれていないオッサンと同じ鍋に箸を入れるのはイヤかもしれない、と考える。ホームレスの自分が飲食物をあげたら、ホームレスじゃない相手は嫌がるだろうな、と考えることはエチケットの範疇、そのくらい気を回してもらわないと、うっかりボランティアもやれない。これがわからないと、この阿呆の講師みたいになる。

「ホームレスって言葉がおかしい。彼らは家がないだけ。だからハウスレスのほうがいい」

「ホーム」とは故郷。それから家族。だから「ホームステイ」は家族の一員になることが前提。ホームレスはそれらを失っているから問題なのだ。その参加意識、帰属意識がないから自立支援センターに来ないのである。自分の生活にしか考えが及ばないからモチベーションが低いのである。今更、何を言っているのか。ならば自宅があり、そこに家族がいる老人が入所する施設は「老人ハウス」か。福祉専門の大学教授がこんなレベル。日本の福祉はまだまだこれからか。




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