「表現の自由」って何だ ヘイトスピーチを考える
<【石川智也】憲法が保障する「表現の自由」とは何か――。差別的なヘイトスピーチ(憎悪表現)デモが問題化するなか、そんな議論が高まっている。街角やネットで在日韓国・朝鮮人への侮蔑を繰り返す若者と、「市民」としてそれに抵抗する男性とに、話を聞いた。
■「公益と秩序のため」
「劣等民族」「害虫」「奴隷の子孫」……。画面に不穏な言葉が並ぶ。
茨城県南出身で今は都内に住む20代の会社員男性は、主に韓国や北朝鮮、在日コリアンについての「所感」を、3年前からツイッターで発信するようになった。竹島や朝鮮学校の高校授業料無償化、歴史問題などにテーマが及ぶと、さらに言葉が激しくなる。知識の仕入れ先は、高校生のころに読んではまった「嫌韓流」という漫画という。
「ネットだから遠慮はいらない。日本人はお人よし過ぎる」
仕事を終えた夜には、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のデモの動画を見て、視聴者コメントを書き込むこともある。2006年に結成され、朝鮮学校などへのデモを繰り返している団体だ。
男性は会員にはなっていない。しかし、「行動しなければ意味はない」とのネット仲間の声におされ、自らデモに加わるようになった。これまで10回以上は参加したという。
デモでは「国へ帰れ」「殺せ」など、聞くに堪えない罵声が飛ぶ。なぜこうした言葉を使う必要があるのか。男性は「抗議活動だって表現の自由。気にくわないなら表現の自由で対抗すればいい」と平然と語る。
昨年の衆院選では、自民党に投票した。改憲に意欲を燃やす安倍晋三首相について「日本人の誇りを取り戻せる憲法にすると言っている。評価しない理由がない」。
自民党の憲法改正草案には、21条の表現の自由について「公益及び公の秩序」の下で制約する条文も加えられているが、男性は意に介さない。
「俺たちは公益と秩序のためにやっている」
■「野放しのままでいいのか」
土浦市の岡美徳(よしのり)さん(40)は7年前から、在日韓国・朝鮮人の支援活動に取り組んでいる。
きっかけは、映画「パッチギ!」だ。日本人と在日コリアンとの交流を描いた作品で、監督の井筒和幸さんが「売国奴」などとバッシングを受けていると報道で知り、衝撃を受けた。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の仲間5、6人と、在日問題の歴史を解説するページを立ち上げた。「在日は特権を得ている」と言っている人の多くが「バスに無料で乗れる」「納税していない」などと不正確な知識しか持っていなかった。強制連行や朝鮮学校の無償化問題についてのページも設け、支援集会にも出席するようになった。
以来、「日本から出て行け」などとネットで罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びることは日常茶飯事だ。それでも岡さんは「ここ最近の負の感情の増幅は、異様さを感じる」と話す。京都の朝鮮学校の周囲では、生徒や親が身の危険から朝鮮語を使うのを控えるようになったという。
新大久保などでのデモには、抗議の意思を示す対抗デモの動きが広がっている。こうした「市民」の自発的行動を評価し、ヘイトスピーチの法規制には慎重姿勢を訴える弁護士や学者も多い。岡さんも「傍観者でいるのではなく、国民の多くがこんな行為は許さないという意思を示すことが重要」と話す。一方で、在特会などのデモは限度を超えている、とも思う。
「こんなことが野放しのままでいいのだろうか」
■法規制の必要性、本格的に議論を
《前田朗(あきら)・東京造形大教授(国際人権法)》 欧州の多くの国ではヘイトスピーチ規制法がある。法規制と表現の自由は対立概念ではなく、逆に表現の自由を守るために差別的言説を処罰するという発想だ。背景には、国家権力が表現の自由を抑圧する一方で、その名の下でユダヤ人を迫害した歴史がある。在特会は集団での威嚇、差別・迫害の扇動をしており、国際法の世界では人道の罪にあたる。戦後日本では表現の自由は最大限尊重されるという考えが主流だったが、法規制の必要性を本格的に議論しなければならない状況を迎えている>
ずいぶん昔だが、仕事の関係で「とあるパーティ」があった。場所は駅前の繁華街にあるホテルで、私は当時の部下数名を連れて参加した。その帰り、ホテルの正面玄関から出ると、場にそぐわぬチンピラがいた。素知らぬ顔で通り過ぎるも、チンピラは私のすぐ背後に「用」があったらしく、連れていた部下の一人に声をかけた。
プライベートな揉め事。そのチンピラは部下のスケジュールを知っていたのか、玄関前で待っていた様子だった。柄の悪い罵声が聞こえた。周囲も騒然となる。みると掴みかからんばかりの勢いでやっている。部下は周囲の視線、それから私や他の部下の視線も気にするから当惑している。それで活気づいたのか、チンピラは「殺すぞ」とにじり寄った。
邪魔臭いし、そのまま立ち去ってもホテルの人が110番するし、とも思ったがそういうわけにもいかない。仕方なく割って入った。あなたは誰ですか?とチンピラに問うた。
チンピラは言語不明瞭、というか興奮状態でまくしたてた。そして部下の服を掴んだから、私は一喝した。もちろん、相手に合わせたナンダコラタココラ、ではない。響き渡る猛声での「やめなさい」だった。チンピラは明らかに怯んだ。まさかの真上から目線。チンピラからすれば「叱られている」ような言葉だ。そして続けて「帰りなさい」と道路を指さして命令した。チンピラは「うぐ」みたいになったから、私はチンピラを放置して飲みに行った。
追ってはこなかった。部下には私の連絡先を書いた名刺を渡し、これ以後、連絡があったらそれを示せばいいと伝えた。これから先はこちらでやるから、と。後日、一度だけ連絡があったそうだが、不思議と私には接触してこなかった。本人にもそれ切りだった。
正しいかそうでないか、は存外に重要だ。他のお客さんもいるホテルの玄関にて大声を出して騒ぐ。トラブルの内容は、いまでもよく知らないが、いずれにせよ当人が仕事中、あるいは無関係の人間といるところに個人的なトラブルを持ちこんで来る。挨拶もなしに。
だから私は「叱った」。それも安モン臭いナンダコラタココラではなく、馬鹿でもわかるような簡潔明瞭に叱責した。チンピラはたぶん、ナンダコラタココラ的な日常を送っている。周辺にはそういう連中しかいない。「叱られた」のは学生時代以来とか、そのレベルだと思う。あくまでも対等ではない、と知らしめる。自分が悪くて相手は正しい、とわからせる。
そのためには言葉も選ばねばならないし、TPOが大切だとわかる。大阪の鶴橋でキムチ売ってるだけのオモニに「ゴキブリ朝鮮人は死ね」と罵倒すれば、普通の日本人、常識人はオモニを庇う。白昼、天下の往来で「朝鮮人は射殺しろ」と怒鳴れば白眼視される。チヂミを売ってるだけのアルバイトに「竹島はどこの領土か言ってみろ」と凄む。面喰ったのか、黙っていると「言えないのか、おまえは朝鮮人か」と喰ってかかる。チンピラだ。
それからいくら「竹島は日本固有の領土です。韓国が不法占拠しています」と付け加えたところで「あ、そうなんですか、それじゃ」となると知れている。これがまた、朝日新聞などに使われて<デモでは「国へ帰れ」「殺せ」など、聞くに堪えない罵声が飛ぶ。なぜこうした言葉を使う必要があるのか>と書かれてしまう。申し訳ないが、返す言葉が見つからない。
もちろん、安倍政権のネガティブキャンペーンにもなる。ちゃんとデモ隊から適当なのを引っ張り<昨年の衆院選では、自民党に投票した。改憲に意欲を燃やす安倍晋三首相について「日本人の誇りを取り戻せる憲法にすると言っている。評価しない理由がない」>と紹介する。と思えば井筒なんかを持ち出し<きっかけは、映画「パッチギ!」だ。日本人と在日コリアンとの交流を描いた作品で、監督の井筒和幸さんが「売国奴」などとバッシングを受けていると報道で知り、衝撃を受けた>とか宣伝する。少なくとも利用されている。マッチポンプじゃないとすれば、じつに見事な連係プレイだ。
「何を言うかよりも誰が言うか」は柿本篤弥氏の言だが、例えば英文の日本憲法を書いた一人シロタ・ゴードンは朝日新聞に「だれが書いたかより、中身が良い憲法ならそれでいいじゃないか」と書いた。無論、中身については憲法改正でいま、なんとかなりそうだが、しかしながら、いままでずっと、半世紀以上も「中身」に触れなかった真因とは、その問題が実のところ「だれが書いたか」にあったからと自明である。戦勝国が書いたから政治家もメディアも触れなかった。「中身」が都合よろしかったから反米親中の左巻きも触らなかった。米軍基地をして「植民地支配だ」というなら、押し付け憲法を後生大事にしてるのも植民地根性だが、結局、前代未聞の政治的文書が憲法として認知されてしまった。
また、朝日新聞の代わりに書くと、この「男性」とやらの<抗議活動だって表現の自由。気にくわないなら表現の自由で対抗すればいい>は何かと足らない。対抗してみろ、と挑発するなら場所がおかしい。支那朝鮮人は自国でもやるが日本でもやる。長野事件もそうだったが、普段からの反日デモは日本国内でも行われる。つまり「男性ら」は天安門広場でやらねばならない。日章旗を掲げて「犯罪者支那人を日本に送るな」と練り歩かねばならない。ソウルの日本大使館前の水曜、日章旗を掲げて「朝鮮人売春婦は日本に来るな」とやらねばならない。道行くソウルの韓国人に「このゴキブリが!」と吐き、毛沢東の肖像画の前で「支那人は他国への侵略行為を直ちに止めよ」と叫ばねばならない。安全な日本国内において警察官にガードさせながら、普通に暮らす在日の支那朝鮮人相手、それも女性や老人に罵詈雑言で<対抗すればいい>は分が悪すぎる。「抗議活動」としては完全に敗北しているのに<対抗すればいい>は、まるで朝鮮人だ。
また、正直に言うと、せっかくの正しい主張から説得力が消える。例えば在特会は京都の朝鮮学校に対する抗議で逮捕者を出した。メディアは「在特会」と「逮捕」を報じ、あるメディアは同会会長に公園が使えなかったら朝鮮学校の子供はどうすればいいか?と質問をした。会長の返答は<それは日本が感知することではない、日本の公立学校は朝鮮人の入学を認めている。それでも民族教育がしたいなら帰国するべき>というものだった。まったく正論だと思う。その通りだ。しかし、なぜ逮捕者まで出さねばやれないのか。
誰が何を言うか、どういう人がどういうことを言うのか、は常に問われている。同じ「国民のために」でも民主党が言えば「それはどこの国民のことだ」と怪しまれるようなものだ。つまり、普段の言動における信頼性だ。また、もう少しだけ言うと、あんな差別的な怒声、いわゆる「ヘイト」でなければ賛同者はもっと増える。いや、せめて「支那朝鮮人をなんとかせねば」と憂いている人らとは連動できる。主義主張には賛同したい、思想信条に文句もない、でも「同じだと思われたら困る」が蔓延する。ただでさえ「保守派は分裂する」とか言われる。大きな方向性は同じなのに、実に取るに足らないことで分解する。
左巻きのアホンダラは「脱原発」と「9条を守れ」で喧嘩しない。死刑反対は少年法改正反対と仲良くする。沖縄米軍基地は国外に、という連中は「だけど中国共産党のチベット侵略はダメだ」とか言わない。妙な褒め方だが、ちゃんと小異を捨てている。連中は根がいい加減だから、決して小異ではないことですら、その目的の前には沈黙することもできる。
つまり、保守派こそが協調性を考慮せねばならないはずだ。そして誰よりも常識とか良識を重んじねばならないはずだ。無論、デモは大いにやるべきだ。日本にある言論の自由、集会の自由は行使すべき権利である。ただ、そこでは「みなさん」と語りかけねばならない。ビラを受け取って読んでもらわねばならない。興味を示した道行く人が「これはなんの集まりですか?」と話しかけられるよう、普通でおらねばならない。ここは日本だ。メガホンで「殺せ」と叫ぶ集団に話しかける人もいなければ、賛同するような「普通の人」はいない。
言ってることは正しいんだから、竹島を返しなさい、嘘を吐いて日本の名誉を貶めるのは止めなさい、でいい。言動が乱れると、いずれ中身も乱れる。そのうち支那朝鮮の国旗を焼いたり、向こうの国家主席や大統領の等身大パネルを焼いたりするのが出る。「人を呪わば~」とも言う。呪詛とは罵詈雑言のことだ。これは口から吐くと必ず自分に戻る。「呪詛返し」だ。だから平安時代、加持祈祷を行う陰陽師は人を呪い殺すとき、墓穴をふたつ掘った。返ってくると知っていたのだ。
また、潜在意識は「主語」を認識できない、とも言われる。つまり「朝鮮人を殺せ」から「朝鮮人」が消えて潜在意識に刷り込まれる。相手のレベルにまで堕した批判は跳ね返り、そのまま自分自身のレベルになる。
その<俺たちは公益と秩序のためにやっている>という中身に「支那朝鮮人を殺せ」だけが残ったとき、いよいよ「日本が嫌い」「日本が悪い」だけの支那朝鮮人レベルになる。
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