忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

似た者同士と似てない者同士、似て非なるのはどっち?

2010年09月02日 | 過去記事
あまり人の悪口を言わぬ倅が、クラスの中に一人だけ「仲良く出来ない」という生徒がいるらしい。晩メシ喰いに行く途中、車の中での会話だった。

なんで?

と聞くと、倅はひとこと「なんか、すぐ、調子にのるねん」と答えたから、妻と二人で大笑いして事故りそうになった。倅は少し不満げに「なんで?なんで笑うの?」と聞くも、そら、おまえ、それは、おまえのことだからだ、とまた馬鹿にして笑った。

よく「あの人とは全然、合わない!」と聞くことがある。何も話していない時から「受け付けない」とか言われていることもある。「生理的に嫌い」とか「本能が避けている」とか言われたら、もう、挽回のチャンスなどないではないかと困るのだが、まあ、それも人間、私にも「そういう人」はいる。とくに、私のような引っ込み思案の人見しりの小心者の照れ屋さんならば、そらもう、ほとんどの人がそうなのである。だから、コミュニケーションは「そちらから」お願いしたい。シャイな在日なのである。よろしくネ、である。

一般論ではあるが、第一印象だけで嫌う、あるいは「あまり知らないのに嫌悪感がある」などという場合、それは往々にして「自分と似ているから」などと言われる。同じ極にあって反発するのは磁石でも同じ、と小学校のころ習った通りだ。

例えば、我儘な妻は「我儘な女は嫌い」と言って笑われる。私が「デブは暑苦しいから嫌い」というのも同じレベルであるが、長年「じぶん」として生きていると、自分のことなのに知らないようで知っていたり、知っているようで知らないこと、が発見される。しかし、40歳や50歳になれば後者は少なくなる。いわば「知らないふりをしているが知っている」ということだ。だから、「もう、お父さんはすぐ怒るね」と言われたら、誰がすぐに怒るんだ!とネタのようにすぐ怒ってしまうオサーンがいたりする。

また、よく「十人十色」とかいう。私はなるほど、と思う。「千差万別」はちょっと、人間に使用する言葉としては大仰である。私はそんなに種類はない、と思っている。それにそれほどの大差もない。みな、同じようなもんで十人十色くらいが妥当なところだ。

子供のころにありがちなのは、最初は凄く苦手だったり、嫌ったりしていたのに、例えば「遠足」なんかがきっかけで仲良くなったりすることがある。山の中で一緒に弁当喰っただけで、互いに持っていた悪いイメージが変わってしまう。「最初は嫌いだったw」というのが仲良し二人の挨拶になる。また、給食の時間、自分に「お茶を入れてくれただけ」とか「忘れ物を貸してくれただけ」なのに好きなってしまったりするのも子供の頃だ。大人になってもそれではキリがないのだが、キャバクラに飲みに行って「あの娘、俺に気がある」と勘違いして通い詰める哀れな男などは、つまり、恋愛観における未成熟なのだともわかる。男が惚れたふりをするのは惚れさせるため、である。男にとっての夜の盛り場とは「惚れる場所」ではなく「惚れさせる場所」なのである(しゃきーん!)。

ま、ところで、人間は知らぬ間に、自分を相手に投影することがある。それは例えば、自分でなくとも「自分の近い存在」だったりもする。わかりやすく言うと「隣の芝は青く見える」だ。これも十人十色、いろいろあって面白い。それに先ず、言っておかねばならないことは、この「隣の芝は青く見える」はウソだということだ。「隣の畑は肥えて見える」でもいいが、これはおそらく「本当にそう」なのだ。

青く見えるなら、本当に青いのだろう。まあ、これが「隣の芝はよく手入れが出来ている」ならば、普通の褒め言葉になるだけだが、日本に暮らすほとんどの人は庭の芝生も畑も所有していないと思われるから、そういわれてもピンとこない。ほんまか?と訝しんでいる読者のために、決定的な実例を挙げよう。

自分の子供と隣の家の子供、どちらが可愛い?

つまり、こういうことだ。これで「うん、隣の子供かな?」という人は隣の家に住んだ方がいい。これは親でも子でも、嫁さんでも旦那でも同じ、だ。口では「隣の子」と言ったとしても、その隣の子供のために生きているわけではないが、自分の子供ならばそういうわけにはいかない。先ほどの「芝」もそう。毎日、自分なりにでも手入れをしていれば「隣の芝は青く見える、けれども、私は自分の芝が好き」となる。要するに「青く見える」のは「自分が手入れをしていない」ということから逃避する自己正当化の手段に過ぎない。

似た相手にはとくに「なれなかった自分」を見つけてしまったりする。ならば、自分もそうすればいいのだが、人間とは本能的に自分を正当化することになっているから、それは「出来ない」のではなく「やらない」のだということで納得しようとする。

ホリエモンが「金で買えないモノありますか?」というが、それは先ず、例えば「筋肉」は買えない。いや、牛や豚の筋肉を煮込んで喰う分は売っているが、人間の、自分の筋力として使用する、あるいは、ホテルのプールサイドでボンドガールを連れて、マティーニを飲んでも笑われない程度の筋肉はコーナンでもジャパネットでも売っていない。だから、金持ちでも貧乏人でも、筋力が欲しければ自前で筋肉をつけるしかない。

虹の会の「帝さん」の腹筋は6個に割れている。チョコレートブロックというらしい。味はイチゴ味だったが、彼の自宅は島根県の海底200メートルにあるから、毎度、帰宅する際には泳がねばならない。それに彼の腹筋は内臓を守るためにあるのではなく、陸に上がってからナンパすることを目的とした―――――っと、これが「やっかみ」である。

現在、私には腹部はあるが腹筋はない。いや、少しはあると思うのだが、街で喧嘩して腹にもらったら倒れる自信満々である。だから、私をヤルときはボディにしな、ボディに、というほどであるが、害の無い大人しい生き物なので、みつけてもそっとしておいてください。餌は与えてください、というほどである。そして、私は「帝さん」のような腹筋が羨ましい。ドンキーホーテーに売っていたら買うほどだ。それに、私がホテルのプールサイドでボンドガール連れてワンカップで飲んでいたら、それはなんか、ただの在日成金のバカンスなだけである。だから、腹筋があるかないか、これは大きな問題だ。

しかし、スポーツ医学的にも人体科学的にも、だ。私も毎日、腹筋運動すれば、腹には腹筋がつくことになっているはずだ。ちゃんと6個に割れることだろう。ある意味、とても平等であるが、しかし、今年の夏も私の腹部には腹筋が無い。原因はひとつ。

私が腹筋運動をしていないからだ。これを「やらないのか・出来ないのか」と己に問うも、そんな答えはすぐにわかる。腹筋20回を5セットする時間が無いほど忙しくはない。ただ、続かないだけだ。そして答えは明白だ。「出来ない」のである。「やらない」のではなく「やれない」のである。だから「隣の帝さんの腹筋は割れて見える」のではなく、実際に割れているから羨まし腹立たしなのである。えぇい、ちくしょう。






――――口では「人は人、自分は自分」と言えるも、なかなか、現実には難しいこともある。例えば、国際社会がそうだ。

19世紀の日本からして「隣の芝」は青いどころではなかった。荒れ放題で腐っていた。腐臭漂うだけなら我慢もするが、日本からすればそういうわけにもいかなかった。その隣や、その芝のある家から北にある白人さんの家などが、その家を狙っている。「隣の畑は肥えて見える」わけでもないのだが、その隣にある日本という家は間違いなく肥え太っている。

日本は自分のところも、他の町内の皆様と同じように荒らされてしまうのではないか、と危惧したのも無理はない。だから、隣の朝鮮さんには「ちゃんとしなさいよ」と隣近所の誼で芝刈り機をあげたり、散水機を差し上げたりした。

しかし、どうにも困ったお隣さんやご近所さんがいるのは現実社会も同じで、一向に芝の手入れもしないし、荒れ放題のまま、仕事もせずにあいごーあいごーと暮らしている。

そこにとうとう隣の家の清さんが来た。清さんは前に住んでた漢さんと違い、ラーメンマンみたいな髪型が変なだけで、それなりに文化も技術もあったから喧嘩は弱くなかった。清さんは朝鮮さんの家で好き放題を始めた。朝鮮さんは清さんが来ると、頭を三回地面に叩きつけて、それを三回繰り返して迎えていた。清さんは日本の家も覗き、舐めきっていたが、日本は白人さんが怖くて腹筋していた。腕立てもしていた。清さんは知らなかった。

ある日、喧嘩になった。清さんは日本にボコボコにされて謝った。そのあと、仲直りの印に「ふぐちり」を食べながら約束をした。その一行目には「朝鮮さんの家から出て行きなさい」と書いてあった。ついでに清さんの家の勝手口も使わせてもらうことにした。

それを知ったロシアさんとドイツさんとフランスさんは、関係ないのに日本に向かって「勝手口は返せや?ああぁ?」と干渉してきた。日本は怖かったし、今後の付き合いも考慮して「わ、わかりましたよ・・」と勝手口を返した。

朝鮮さんは日本に世話になるのに抵抗があった。朝は何時に起きなさいとか、毎日、家を掃除しなさいとかいうのである。勝手にやってくれるならばどうでもいいのだが、それを上から目線で「やりなさい」と言われるのは癪だと思っていたところ、日本が先日獲ったばかりの「勝手口」をもう返したと聞いた。なんだそりゃ、これは日本のいうことを聞いていてもダメだぞと、それなら白人のヤクザに上手していたほうがいいだろうと、日本に隠れてこそこそロシアさんのところに行った。よろしく、ニダね♪

ある朝、日本が西側の窓を開けて朝鮮さんの軒先を見ると、なんと、軍港が出来ていた。そんなこと聞いてないぞ!と朝鮮さんに言ったら、それはロシアさんのものセヨとかいう。ちょ、おまえ、いい加減にしろよ、相手はやくざだぞ!!と言いつつも、日本はもう、喧嘩は避けられぬと覚悟した。

他のヤクザはニヤニヤしていた。イギリスさんには戦艦売ってもらったりしたが、それでも「どうせ、日本ってば、やられるョww」とワクテカしていた。近所の人はドキドキしていた。我々の町内の者が、あの強大なヤクザ相手に勝てるわけない、とあきらめていたが、日本の放ったワンツーパンチが陸と海で決まった。白人さんたちは「ラッキーパンチだ!」とか「スリップダウンだ!」と言ったけれども、どうみても日本のKO勝利だった。

慌てたアメリカさんは、大きな河の向こうから「もう、やめなさい」と言ってきた。日本ももう限界だったから助かった。もう一度、ロシアさんが立ちあがってきたら、パンチの1発も放てぬほど消耗し切っていたからだ。

日本は落ち着いてから、もう、朝鮮さんを「一緒の家族」にしようとした。もちろん、両家族には反対する者もいた。でも、放っておけばまた、隣の家に誰が来るかわからないよりはマシだと思った。喧嘩になった白人ヤクザも「こいつの所為で喧嘩ばっかりしたんだから、それがいいよ」と言って反対はしなかった。そのころ、清さんはヤクザを利用して勝手口を取り戻したはいいけども、そのあと、やっぱりヤクザに乗り込まれて、家の中を分けられて無茶苦茶になっていた。前に住んでいた漢さんも狙っていた。ヤクザは利用しないに限るのだ。もう、日本からすれば、勘弁してくれ、という状態だった――――




――――キリが無いのでもう止めるが、すなわち「隣の芝は青く見える」のか「隣の芝は本当に青い」のか、この違いはあるということだ。また、芝でも畑でもいいが、ともかく、自分の所有するモノならば、無条件に「よくみえる」のも至極当然なのである。前総理は「日本列島は日本人だけの所有物ではないんですから」と本当に言った。つまり、「良く見えていない」わけだ。だから、本当に「隣の芝が青く」見えていることだろう。

また、それらに情を注いで愛が息吹くとき、それは「無償の施し」が出来る対象となっている。これは普通「愛国心」と呼ぶことになっている。






そして――――


恐ろしいことは、冒頭のコレ、だ。今日はこれが書きたかった。

「似たもの同士は反発し合う」である。

今のヒステリックな「嫌韓・嫌中」をみよ。シュプレヒコールを朝鮮語に代えて、日の丸を大極旗に代えてみよ。まるで同じ、である。デモが高じて威力業務妨害で逮捕されるなど、もう、あべこべではないか。相手が「ともかく日本が嫌い」といえば、こちらも「ともかく支那朝鮮は出ていけ」であれば、これは同レベルである。

また、反発し合うことで似てくる。「保守」を標榜する、自称「愛国者」が「仕事が無いのは自民党の所為」だと平然として言う。自民党は長らく日本の政権与党であった。つまり、国の責任だと言っていることになる。政府批判をするなとは言わない。私は民主党政権も叩くし、福田内閣の時も散々、酷いことを書いた。しかし、だ。売国が過ぎる政府に税金を払うのが嫌だと愚痴は言っても、私が勤める会社が潰れたことも、私が商売を辞めたことも、すべからく「私生活」についての問題を、日本政府の所為にしたことなどない。


なぜか?

それは卑怯者のすることだからである。そして、愛国者に卑怯者はいないからだ。

例えば、それはまるで「不動産屋で断られたのは韓国人差別」だという在日根性と同じに見える。「自分が就職できぬのは自民党政権が悪い」とするのは朝鮮人マインドである。

「他の何かの所為」にするのは日本人的ではない。どんな不遇の時代であれ、日本民族は粛々と成すべきを成してきたから、今の日本がある。時代はあくまでも原因であって、真因ではない。今の自分をどう生きるか、まで国家は関与しない。靖国神社に参拝しながら「誰でも平等に安心して働ける社会」を言うなど、その思想の足場が腐っている。それは、あんたらの大嫌いな社会主義国の理想である。共産主義革命の大義ではないか。

日本は違う。日本は「勝った者が負けた者を廃さない社会」なだけだ。勝った者が勝ち分を一人占めしない社会なだけである。これは日本独特、日本だけだ。だから、先ず、国を憂うならば勝て、と言いたい。勝って敗者のために税金をたくさん払ってやれと言いたい。そうすることで負けた者もまた、勝てるときが来る社会が「日本社会」ではないか。

労働条件がどうだ、賃金がどうだという前に、だ。管直人は今日、代表選の公開討論で「1に雇用、2に雇用、3に雇用」だと阿呆丸出しで言った。自民党政権時代、すなわち「当時の日本国政府」に責任転換をする者は、全員がこの阿呆丸出しに賛同せねばならない。国が雇用を守ります、とは社会主義国家ではないか。雇用を守るのは経世済民、すなわち経済活動そのものである。簡単に言うと「国民が自分らで守る」のが自由経済における国家の前提である。国はその手伝いをするだけだ。緊急事態でなければ「市場に任せる」のも当たり前なのだ。だから、パトカーや救急車と同じく、経済についても「出動」と呼ぶことになっている。今は日本経済が緊急事態だと言っているのに「どんな状況ですか?」とやっているから現政権は市場から無能だと笑われて株が下がっているのだろう。

もちろん、その代わりに日本は社会主義国家と違い、様々な自由が保障されてもいる。つまり、様々に「活動」できるのである。先ず、職業を選べる、ということは普通ではない。選べない国をいくつか知っているはずだ。また、五輪も出来るし万博も出来るが、人民が勝手に引っ越しも出来ぬ国もある。日本という国は誰でも社長になれるし、経営者にもなれるし、民主党員かどうかで出世も決まらない。言うなれば「何でもできる国」である。




―――支那朝鮮が「反日」なのは国定教科書だけの問題ではない。それに支那と朝鮮では理由も違う。先ず、大東亜戦争での立場が全く違う。まさに「敵と味方」ほど違う。

今年は日韓併合100年とのことで、日本の売国政権が謝罪談話を出したが、要するに、だ。結果論だが、この併合がダメだった。あくまでも「別の国」として援助するならしていればよかった。保護国のままが良かった。なまじ「同じ国民」だとしたから、戦後の朝鮮人は隣の芝が青くなることが癇に障った。本当に青く見えていた。

戦前、まぶしいほど蒼くみえた隣の芝は自分のところにも来た。朝鮮人の多くはそれに感謝し、努力して自分のところにも蒼く光る芝を植えた。朝鮮は日本に「似ていないのに似ている」と錯覚した。いや、当時の朝鮮人の誇るべき愛国者は「似せる努力」をしたのだ。戦後もそのまま、真似ることも問題ないし、似ていないなら似ていないで「自分の芝」を育てればよかったのだが、ここで朝鮮人の悪癖が出た。日本が植えた青い芝を次の世代に説明しなかった。はっきり言えばウソをついた。元々、ここには青い芝があったのだと。

欧米列強の所為で、世界にはまだまだ悲惨な国もある。長年、白人国家から植民地にされて疲弊したまま、もう、日本の若者が想像も出来ぬリアルな悲惨がそこに残る。しかし、それらの国は「ウソも吐けぬ」ほど芝生は枯れ果てている。目の前に真実がある。青いどころか、一本の草も生えぬ大地を前にすれば、己の祖国がずっと、白人国家に搾取されていたのだと認めざるを得ない。雇用どころか、国民の胃袋すら満たせぬ政府に愚痴をたれるではなく、その日その日を生き抜くことが真実となる。ウソを吐く余裕すらない。

しかも、である。朝鮮半島では、日本の敗戦から5年が過ぎてまた、戦争が始まった。冷戦が終わってずいぶん経つが、未だに南北に分かれているのはここだけとなった。日本と一緒に植えた青い芝が燃やされ、枯れていくとき、朝鮮人は絶望しただろう。まだ「青く見える」隣の芝に逃げてきた者も少なくない。昔を知る朝鮮人の多くがまた死んだのだ。

日本が占領統治された7年間で受けた攻撃は、当然、朝鮮半島でも行われている。


内容は同じではないか。つまり、どちらも教えているのは、



日本が悪かった



である。




似た者は反発し合う。そして日本と韓国が反発して喜ぶのは誰か。支那共産党である。北朝鮮である。ロシアである。日本人も韓国人も気付かねばならない。どちらも利用されているかもしれない。朝鮮高校無償化や外国人地方参政権も日本国民からの猛烈な反対は想定の範囲である。受け入れられるはずがない。ましてや地方参政権で恐ろしいのは大量流入している支那人である。朝鮮人は他国を侵略する余裕はなかったが、支那共産党はリアルタイムで帝国主義の復活を成そうとしている。すでに日本は人口侵略されている。

そして、また、朝鮮人が使われている。北朝鮮は相変わらず事大主義だが、韓国人は、今回も敵は日本人ではない、ということに気付かねばならないのではないか? そしてまた、街中で「朝鮮人は出ていけー!」と叫んでいる愛国青年も利用されているのだと気付かねばならない。ちょうど今年は「日韓併合100周年」とのことだ。1910年から、日本人として敗戦した1945年までの朝鮮半島はどうだったのか、ちゃんと学んだほうがいい。

日本には「崔ナントカ」という名の頭の腐った在日映画監督がいるが、韓国には同じ「崔」でも大違いの「崔三然」さんという、すばらしい元韓国空軍の大佐がいる。ちょっと前の産経新聞にも紹介されている。ちゃんと知って考えれば、いろいろとわかってくる。

「似てない者同士」仲良くすれば、本当の敵が困ることになっている。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
イチゴ味 ()
2010-09-03 00:07:06
な、舐めたんですね


真実を知る年代の方々が、語らずに語れずに亡くなられていくのは、私達にとって本当に残念な事です。

国内外で色々反発はあるでしょうが、先ず正しく知らなくてはより良い未来の選択がして行けないと思います
それはお互いにとても不幸な事だと思います。

返信する
Unknown (久代千代太郎)
2010-09-05 21:08:56
>な さん


何事も確認が大事かと<イチゴ味




年々、みなさまお亡くなりになられますからね。時間は本当に貴重です。少しでも「できること」をやらねばなりませんね。急がねばなりません。がんばりましょう。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。