元気に明るく楽しく

楽しい事を探してゆくよ、少しでも学ぶ事が出来たり、お役に立てることがあるとEなぁ~

信仰は行いによって全うされる

2015年07月29日 07時57分04秒 | 日記

【聖書の基本シリーズ 11】信仰は行いによって全うされる 岩澤 稔子氏フエイスブックよりシェアさせていただきました。

信 仰  行 い> 

  

私たちが、信仰とみことばの実践との関係を正しく理解することが、信仰の従順(ロマ16:26)に導かれる鍵なのです。

信仰は行いによって全うされる(ヤコブ2:22)と書かれてあり、信仰はみことばを従順に守り行うことで全うされ、完成されていくのです。知識や理解だけで「信仰の従順」に導かれることはあり得ません。信仰は行い(愛の実践)を伴うのです。

  信 仰 信仰義認  
義人は信仰によって生きる」」(ロマ1:17) 

  正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:4 


 大前提・・あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ 2:8‐9)


 

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ロマ 3:10)

律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。(ロマ3:20)

 

 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 (ロマ3:21-22)

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ロマ 3:23)

 

 

【 行 い 】 信仰は行いによって全うされる      行い  実行 /実践 



第1段階 信仰による救い : 信じて義とされ、口で告白して救われるのです。


                   御霊を賜る(天国への保証)

 

第2段階 御霊に導かれて歩む ⇒ キリストに似た者として造り変えられる。(再創造)


行いのない信仰はむなしい。すなわち、みことばの実践なしには、キリストに似た者として新しく造りかえられ完成にいたることは出来ないのです。

 


ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます

ヤコブ2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

ヤコブ2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか

2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 

ヤコブ 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

ヨハネ3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見てもあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 3:18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか



  < 良い行いとは何か>・・人々が私たちの行いをみて、天におられる御父があがめられ、御父に栄光をきせることのできる行い、すなわち、信仰による愛の実践のこと。

 


 

☆ 聖書では随所で善を行うようにと書かれていますが、この善を行うということは、信仰による愛の行為を意味すると思われます。その根拠は「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネ 5:29)」 と書かれてあることから、善を行うということは、単純によい行いを意味するのではなく、いのちと関係があるものとして、信仰による愛の行為として捉えることが出来るからです。

 

 私たちは神の作品であって良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた。(エペソ 2:10)

 

●  このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

 みことばを実行する人になりなさい。(ヤコブ1:22 )

 信仰は行いによって全うされる。(ヤコブ 2:22)

 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない。 (ヤコブ2:24)

 行いのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)

<愛の実践>


 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。(ガラテヤ5:14)


( ま と め )


    御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6:10)


誰でも泣くことはある

2015年07月29日 05時50分01秒 | 日記

きみはどんなに苦しいときも、
               
どんなに孤独を感じても
               
きみ一人っきりのはずはない。...
           
        
                 
もしそう感じているとしたら、
               
よほど視野が狭くなっているときだ。
       
              
               
今、自信を失っているだけだ。
      
                
                
自信を失うのは、
                
何かを学ばせたいからに他ならない。
        
                
              
もっといい人生になるために、
               
そこで何かを感じ取る時間を
                
与えているのだ。
           
                       
神は。
     
            
孤独のトンネルを抜け出るとき。
       
            
               
生きてさえいれば、
              
全員感じることがある。
             
それは人の存在のありがたさ。
           
     
             
人は一人で
      
生きているわけじゃないってこと。
      
     
            
失敗は成功の母という。
     
               
自信喪失経験は、いい人生の母。
            
                      
それ以外の何ものでもない。
       
     
                    
人はしょせん一人だ、
              
そして 絶対に一人ではない。
             
       
                  
誰でも泣くことはあるし、
           
自分で解決しなくては
              
ならないときもあるし、
                         
人に話してすっきりすることもある。
            
      
              
そんな時、
             
そばに家族や仲間がいること。
                    
忘れないで欲しい。
        
    

  

感動シェア広場 より転記

              


心からのありがとう

2015年07月29日 05時42分48秒 | 日記

心からのありがとう

1991年、HONDAの創業者
本田宗一郎さんは亡くなっています。

...

生前、宗一郎さんは、
こんなことを言っていたそうです。

「素晴らしい人生を送ることができたのも、
 お客様、お取引先のみなさん、
 社会のみなさん、従業員のみなさんの
 おかげである。
 
 俺が死んだら、世界中の新聞に
 “ありがとうございました”
 という感謝の気持ちを掲載してほしい」
 
 
実は、宗一郎さんは結構早く、
社長を引退しているんです。

66歳で引退し、
いわゆる「会長職」にも就いていません。

「終身名誉顧問」にはなったんですけれども
仕事からは、一気に離れたそうです。

で、社長を辞めた後、
宗一郎さんは何をしたかというとですね、

日本中にある、ホンダの事業所…
販売店から工場から…当時、
700カ所あったそうですが、

その700カ所すべてを回って、
すべての従業員一人一人と握手して、

「ありがとう、ありがとう、
 いつもありがとう!」

と言い続けていたそうです。
 
 
しかも、中には、
2~3人しか働いていないような、
ものすごく田舎の販売店もあったのですが、
…そんなところも全部回ったそうです。

そして、その後、
海外事業部も全部回ったそうです。

全部まわって一人一人と握手して…
何年もかかったそうです。

周りの人たちは、

「ホンダの創業者が直々に握手しにいけば、
 社員のモチベーションはあがりますよね。
 
 仕事をもっと頑張ってくれて、
 業績も上がりそうですよね。
 
 だから握手しに行くんですね」

って言っていたそうです。

でも、実はそうじゃないんです。

宗一郎さんはそんなこと、
どうでもいいんです。

自分がお礼を言いたいから
まわっているだけだったんですって。
 
 
ある日ね、田舎の販売店をまわった時に、
車の整備をしていた人が、

「宗一郎さんが来た!」

って聞いて、喜んで走ってきたんですって。

握手してもらいに。

で、握手をしてもらおうと思って
自分の手を差し出した瞬間に、

「アッ!」って言って、
パッと自分の手を引っ込めたんですって。

なぜかと言うと、
手が油まみれだったんですね。

仕事中に急いで走ってきたから、

「今、洗ってきます!」

って、手を洗いに行こうとしたら、
宗一郎さんはその社員の背中に向かって、

「その油まみれの手がいいんだ!」

って言って、
その整備士を引き止めて、
握手したそうですよ、両手で。

でね、嬉しそうにその手をながめて、
目を細めて、
手の油のにおいをかぐんですって。

そんなの見てたら感動しますよね。

泣きますよね。 
 
宗一郎さん、
こんなことも言っていたそうです。

「握手すると、みんな泣くんだ。
 そして、その涙を見て、自分も泣くんだ」
 
って。

すごいですよ、この人。

だから、本気ですよ。

この「ありがとう」は。

本当に心からみんなに
感謝しているんですよ。