草の道・いざり坂 (村人は「えざり坂」と呼ぶ)
(その昔、北坂梨集落の人々が牛馬を引いて往還した、外輪山牧野への坂道)
令和4年4月2日 快晴
外輪山の崖をつたう坂道は、一の宮町だけでも25を数えます。(中略)
これらの坂で最も傾斜が厳しいのは、北坂梨の「さざり坂」です。(中略)
坂の名も膝をついて登るくらい急なことから付けられました。(中略)
(出典:「阿蘇ペディア」より一部抜粋)
注: 「さざり坂」との記載は、「いざり坂」が正当と思われる。
(詳細は後述する)
旧一の宮町内にある坂(草の道)のマップ 出典: 大滝先生ポジフィルム
*マップ転載は「阿蘇草原保全活動センター 草原情報館」にて了承済
二回にわたるル-ト下調べで、村人に尋ねると10人中10人が
「豪雨災害で今は登れません ! ! 」との返事であった。
今回はこの草の道「いざり坂」を踏査することとした。
(行程) 墓地横、駐車地(発10:45)→登山口(着10:50)→道探し(ロスタイム約20分)
→草の道に取付く(着11:20)→外輪山山頂部(着12:30~散策~発13:40)
→墓地横、駐車地(着14:50)
(今日の一枚) ↓
阿蘇・東外輪山「いざり坂」の福寿草(令和4年4月2日) 2/1
阿蘇・東外輪山「いざり坂」の福寿草と黄スミレ(令和4年4月2日) 2/2
↑【許可を得て墓地横に駐車】
中央ピークが「いざり坂」の山
↑【登山口】
↑【登山口より集落を振り返る】
↑【砂防ダムに塞がれ引き返す】
踏み跡に従い谷筋に入ったため登路遮断。
引き返し、尾根側に移動する。
尾根に上がり、下を眺めると広い道幅が存在し
草の道であることが一見された。
↑【コンクリトの円筒・水溜 ?】
草の道の遺構であろうか?
↑【崩落した巨石】
↑【石垣と石畳みが繰り返して現れる草の道】
↑【登路から眼下の集落を望む】
↑【窪地の登路に沢山の倒木が横たわる】
↑【外輪山稜線を歩く】
↑【牧野への出口】
↑【牧野から根子岳・高岳を望む】
↑【根子岳】
↑【広大な牧野の先に九重連峰】
↑【牧野窪地に群生する福寿草】
↑【窪地斜面を彩る黄スミレ】
↑【カルデラ縁(外輪山縁)から望む景色】
↑【三野坂で見た、祠が視える】
↑【黄スミレと福寿草が混在して咲いている丘陵斜面】
↑【カルデラ縁に流れ下る福寿草の仙境】
↑【野焼き跡に咲き誇る福寿草】
↑【復路で登山口の集落を望む】
↑【駐車地(墓地)の上手に建つ標識板】
↑【いざり坂のイメージ】
坂名について登山口直下の村人に尋ねる
1) 70代付近の人は坂名を知らない(7名)
2) 93才のおばちゃんと90才位?の叔父さん
「い」ではなくて「え」の「えざり坂」と呼びます。
と二人揃って明確に話された。
3)「阿蘇ペディア(採草と索道)」ぺ-ジには「えざり坂」と表記あり。
「当時の索道の設置場所は願成就坂、栗の木坂、えざり坂(北坂梨)、
象ケ鼻などでした。象ケ鼻では大収穫のワラビを索道で降ろそうとして、
風圧のため途中で飛散してしまった事もあったそうです。」
従って、
一の宮町坂マッブには「いざり坂」と記されているが
地元村人は「えざり坂」と呼んでいるようである。
「さざり坂」という坂名は誤記ではないかと思われる。
登山を終えて
登り始めの20分位は道探しに苦労したが、草の道にあがれば
安定した一本道を道なりに辿ることとなった。
狭い尾根に付けられた急峻な道であるが故に
小刻みに九十九折が重なり、
石垣や石畳みが頻繁に造られ、
先人たちの苦労を彷彿させるような草の道であった。
外輪山山頂部の牧野の広大さも目を見張るものがあり、
加えて予定外の福寿草やキスミレそしてこれから咲く
桜草とも出会え喜びの草の道踏査であった。
(2022.04.12日 加筆)
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