R's/ Field Research 地域歴史・文化資源

地域の歴史・文化資源の再発見ブログです

口和町郷土資料館

2012-09-10 20:02:45 | 地域博物館

(FBに5月に掲載したものです)

雲南吉田日誌抄某月某日 

 雲南吉田とは県境を挟んだ広島県庄原市口和町に出かける。吉田からは分水嶺を挟んで直線距離で40kmくらい、車で50分程度の処である。『逆手塾』という地域活動をしている集まりが、ここ口和の郷土資料館というところで行われるのである。資料館と言うことで集まりの予定は午後6時からではあるが,展示内容を確認したいので早めに到着。 『逆手塾』は「過疎を逆手にとる会」という集まりで、既に30年の活動歴があるそうだ。作家の永六輔さんなども応援していて、いわば「里山暮らしを楽しむことにより、里山拡命~変革はいつも傍流から。私が変わる。私が変える」をテーマにしているそうである。現在は4代目「人間幸学研究所」の和田芳治氏が主催で元気に活動されている。 さて口和郷土資料館であるがこんな機会でもなかったら決して訪れることもなかったであろう。廃校になった小学校を利用して郷土資料館として開設されたものだ。 民俗資料は思いの外充実しており、倉庫状態になっているのが気にはなるがそれでも関東の人間には珍しい物もあり、じっくり検討すればきっと面白いであろう事は容易に解る。ここの特徴は何といっても、古い音響映像機器類が基本的に動く状態(動態資料として)で展示されており、またそれを可能としている立派な修繕室を供えていることだ。館長は「某大手」の技術者として勤め上げられ、リタイヤ後奥様と共にこちらに赴任、館長自ら全ての機器類のリペアを行っている。修繕に必要な機器類は全て館長の道具であり、寄贈された資料は基本的に改造することなく修繕して展示に供している。SP盤を再生する蓄音機(明治43年製)をはじめ、ラジオ、ステレオなど全て真空管によるもので、蓄音機などすばらしい音質であった。映写機も50年ほど前に口和町の映画館で実際に使われていたアーク式35ミリ映写機が現在も使用可能な状態でセットされており、フィルム映写会も行われているようである。実際に一部のフィルムを投影していただいた。 また館長のお話では、かつて放送されていたFEN(駐留米軍による極東放送)の放送原盤直径50cmのレコード盤(LP盤)の再生装置で現在稼働できる物はここにしかないとのことである。かつてFENに勤めて居られた方(東京在住・日本人)が原盤をここに寄託されているそうである。 

 FENは高校生の頃は横田ベースから放送されていたのをよく聴いていた。何よりNHKを除く他の放送局に比べて一番クリヤーに聴けて、音楽が絶え間なく流れている番組は新鮮であった。青梅に生まれ、昭和40年代に東京多摩にて中学高校時代を送った私にとっては、未知の世界への入口として英語が分からずとも良く聞き流していた。東京でも洋楽(POPS)を聴くことの出来たFM局は2局(NHKと東海大学実験放送たしか通信教育・船舶通信用?)しか無く、屋根にせいぜい5素子のアンテナを立て聴くしかなかった。LPレコードは値も張り、そうそうお小遣いでは買える物でもなかった。周囲に音楽家でコレクションを擁している人も皆無であった。音楽情報の入手はなどラジオを通しての聴取のため、結果色々なジャンルの音楽JAZZ,ROCK,Motown,などに接し得たのだろうと思う。

 また、ここでは昔のブラウン管テレビも修繕されていて、現在のデジタル放送もモノクロではあるが映し出している。

 

 

  展示において、そのストーリーを追いかけるのには、既に知っている物から入るのが一番容易だと考えている。既知の物の関連づけで未知の理解に至るものだと考えている。展示はあくまで直感認識を刺激する手法・手段であり、展示を通して交流するきっかけだと思う。私の場合こうしたかつて使ったことのある道具を通じて、日常思い起こすことのない記憶を紡ぐきっかけとなったのである。 

  さて、夜から行われた逆手塾の事であるが、近在から20名ほどが集まり、館長による資料館の紹介・案内が行われた。その後地元有志による手打ちそばがふるまわれ、会は進行した。自己紹介が行われた。多くは私と同年代かそれより上、リタイアの上こちらに定着した人、実家周辺に帰ってきた人など様々であった。 

 「過疎」は、一般的には次のように言われている。「昭和30年代以降の高度経済成長に伴い、農山漁村地域から都市地域に向けて若者を中心として大きな人口移動が起こり、都市地域においては人口の集中による過密問題が発生する一方、農山漁村地域では住民の減少により地域社会の基礎的生活条件の確保にも支障をきたすような、いわゆる過疎問題が発生した。」 1970年、過疎地域対策緊急措置法では、「年率2%を超える人口減少が続く中で、人口の急激な減少により地域社会の基盤が変動し、生活水準及び生産機能の維持が困難となっている地域(=過疎地域)」と規定している。1980年には過疎地域振興特別措置法、1990年:過疎地域活性化特別措置法など10年ごとに議員立法として更新を重ねてきた。2000年:過疎地域自立促進特別措置法では、「人口の著しい減少に伴って地域社会における活力が低下し、生産機能及び生活環境の整備等が他の地域に比較して低位にある地域」となり、人口減少率・財政力指数などの条件を満たすところを「過疎地域」としその施策が施されるも、解決の糸口はない。過疎地域を抱える自治体では、さらなる「過疎新法」を促す運動を行っている。島根県はその先頭に立っている。 2010年現在では法律で言う「過疎地域」に認定される地域は、自治体の数で45%、国土の面積では実に6割近くとなっている。ここ吉田地域を含む雲南市もまた上記過疎地域の市町村に含まれているが、吉田の場合、世帯ごと町村合併によって生まれた広域の雲南市の都市部(町中)に更に移動し、合併前より地域行政との距離は確実に広がっている。このことは吉田のような過疎地域だけでない。市同士の合併、例えば清水市と静岡市の合併により静岡市となったが旧清水市の住民が旧静岡市側に流れ、旧清水市の商店街が空洞化しているなどが知られている。同じ市域・市民という気楽さが状況を加速させる。吉田の場合、基本的な自治の基盤である集落の存在さえ危ぶまれるところ(限界集落?)も発生してきている。 「過疎逆」は30年ほど前、当時30代から40代の人々により「過疎問題」の進行過程で広島県芸北において地域作りの運動を展開してきた。中心的に活躍された人達も既に60代後半から70代となっている。それでも尚楽しげに地域を背景に頑張っている?。

 それは言葉から受ける印象なのだろうか。 「過疎逆」の通信には言葉の言い換え(駄しゃれ)が氾濫している。それは「駄洒落は発進力を強化する情報加工の手法」として確信して熟語を概念化している姿である。例えばこうだ。(原義の解釈は文中および関塚による。)  志民←市民・輝業力←起業力・楽力←学力・笑誇←エコ・危業←企業(起業)・拡命←革命・木族←貴族・幸学←工学・光齢者←高齢者etc。 駄洒落と言えば駄洒落なのだが、一つの翻訳語として付き合っていくことにしよう。近代になってからの翻訳熟語を作っていく際にも程度の差はあれ同じ工程は踏まれていたのであり、言葉を生み出していく過程はまさに文化であると思う。 さて、逆手塾はそうした言葉の言い換えによって、過疎地(中山間地:これとて行政が生み出した造語であろう)を里山と読み替え、地域における生き方の模索を行っている。過疎地における自治・財政・社会基盤の問題とは別に、ここ十数年、「持続可能な(サスティナブル)」であるとか「スローライフ」とか「有機栽培」とか生活の態様を見直す動きが活発である。消費から成熟への転換点という人もあろうが、少なくともそれが「商品」となってきたのである。「過疎地」が食や水や環境、さらには労働の質の転換と言う観点に立てば、都市との対蹠に立つ「里山」「里海」という意味が出てきている。都市問題は逆に「過疎地」に救いの目を向けている。(これは果たして正当だろうか?)  

  「都市と農村の対立」これは古い課題だ。私が学生の時代にも、近代における都市と農村などは様々な分野で議論された課題である。それは権力や政治の関係であったり、支配ー被支配の関係であったり様々な関係を取り結ぶ。ここ40年の「過疎問題」は農村における労働力や資源を都市が消費する構図の中で地域の社会基盤が疲弊するという展開してきた。しかし、経済活動が多国籍交際化される中で国内の都市と農村との関係性はかつての構図と変化している。

  上記過疎地に居住する8.8%の人口に更に老齢人口が3割を超える段階では都市に供給する労働力を供給するところではなくなっている。さらに国土の6割を占める過疎地は同時に食料などの供給地でもあるが、それに投下する労働力もまた高齢化という現実に直面している。農業に限って言えば、集落営農法人や企業法人など様々な試みが現在行われている。が、小規模な従来の「営農」は変換を余儀なくされていくのであろう。 

  話題を戻そう。「過疎を逆手に取る」とは、地域にないものを都市部より持ってくるよりも都市部に「ないもの」を積極的に「是」として評価することであろう。それが「景観」であったり、「食材」だったりする。また「生活の不便さを積極的に楽しもう」という姿勢である。かつて都市部との差に、情報入手・発信の格差があった。端的に書店や図書館などが少なく空間的な距離差はそのまま情報距離に反映していた。しかし、近年のWebおよび物流関連の環境の劇的変化は、少なくとも情報とものの受発信に決定的な影響を与えた。

  隣の奥出雲町では早くから全戸光ファイバー網が導入されており、情報の受発信に敏感な人々にとっては有効な道具となっている。このことは数年前、八丈島に出向いたときも、痛切に感じた。離島における情報格差の中で全戸ホームページ化を目指して若者達が活動をしていた。 こうした(情報)環境の変化は、過疎地と呼ばれた地域にとって新たなチャンスを生み出していることは確実である。都市部にはない景観や環境の中にいて時間と仕事・生活を送ることは、文化の享受という点で等価値に近づいていると言えないだろうか。むろん私とていわば二重生活をしており、大型書店に身を置くときその情報の膨大な量に圧倒せざるを得ない。快感ですらある。いつでも東京に逃げ帰ることが出来るからそんな悠長なことを往っているのかも知れない。まだ自問は続く。


全日本博物館学会での感想

2012-06-20 07:01:28 | 地域博物館

地域博物館への期待①


 今週の土日(6月16.17日)に明治大学で全日本博物館学会が開かれました。私は日曜日のみの参加でしたが、年々若い人たちが多くのレポートを発表するようになり、学会がここ数年非常に活性化してきていることは何よりと思います。残念ながら私は今まで博物館の運営側に立つことなく過ごして参りましたが、一人のユーザーあるいは博物館が好きで博物館に期待を寄せる一個人として議論の動向に関心を持ち続けております。


 さて、当日の様々なお題の中で私が関心を持った幾つかの話題をヒントに私も博物館について考えてみます。ここでは「パブリックヒストリー」と博物館について考えてみます。 「パブリックヒストリー」とは個人史を含む市民の歴史をコミュニティーの形成の歴史と併せて検討する領域と考えております。Publicは実態として日本では充分成熟しおらず、日本におけるパブリックヒストリーの展開という実践には若干違和感は覚えますが、博物館との関係で言えば、従来の言い方で言う地域博物館は地域史の拠点で有り、地域の所在する文化財や歴史・自然を通して地域の形成を考え、地域アイデンティティー確立の場とするような考え方とは違いがあるように思われます。パブリックヒストリーの考え方の延長には継続的な地域コミュニティーを作り上げていくための実践的な課題も内包しているように考えるからです。(現状の博物館がまちづくりの核となるかについては、一度留保しておきます。)日本では地域における教育活動を社会教育として位置づけ、就業支援や余暇や趣味の向上に力点が置かれていたと考えています。地域では何より公民館活動がその先端を担ってきたのですが、生涯学習という方針の下に再編成がなされて今日に至っていると言えます。実は公民館と地域社会の議論ではすでに30年ほど前から議論が戦わされてきたように記憶しています。1970年代から80年代にかけて、私の周辺では公民館をコミュニティーセンターと呼び換え、社会教育主事の業務は住民の自発的な活動をサポートするないしは場所を提供するためのサービス機能の仕事となり、公民館の存在は現在の生涯学習路線や自主学習グループへの場所貸しへと機能を変化させていったと言えるでしょう。最近、地域の拠っては自主自治の拠点(集落を越えた広域住民自治機能のセンター)としても機能しているようです。


 博物館の話題に戻ります。博物館活動にとってパブリックヒストリーの担い手は誰かと言うことになると、その中心はやはり市民と言うことになるのだと思います。数年前の事になります。長野県の北信に牟礼村という飯縄山の麓に展開する地域の博物館を訪れたときのことです。現在では町村合併で隣接する三水村と合併をして飯綱町となっていますが、「むれ歴史ふれあい館」と呼ばれる地域博物館に於いてある企画展を行っていました。企画展は地域の「区」と呼ばれる集落がおのおの展示の企画から制作までを担当し、学芸員がその展示内容についてサポートするという仕組みで行われており、その準備作業を目撃することが出来ました。館ではすでに数回にわたり継続しており、今回の担当地区はかつて農家の副業として行われていたマッチの製造についての展示をメインテーマとしていました。企画展示にあたって、ジオラマ風の制作状況の人形を伴う実代模型再現から、展示資料の取捨選択・解説などすべてが地区住民の手によって制作設置が行われたのです。私はこの展示を目の当たりにして一種の興奮を覚えました。展示はある種のコミュニケーション手段であると考えている私にとっては、伝達しようとする意思の強さを感じたからに他なりません。前年度は別の「区」が地域の伝統的特産品の一つである「信州鎌」の展示であったそうです。館の学芸員のお話によると、信州鎌についてはすでにいろいろ研究もされており、充分な成果もあるテーマではありますが、地区住民の手による展示は一般の研究者が開示できない別な重要な課題を提起したと言うことです。 詳しくはここでは述べませんが、研究の側面からもこうした展示の方向性は期待出来るのではと考えられます。私はこのような活動においても「展示で表象する史実・証言は、歴史家に証明された歴史ではないが、事実と思われることが学的に証明される時間を省略し、一般の人々の展示テーマに対する認識を問いかける働きがある。」(秋山かおり 全日本博物館学会第38回研究大会発表要旨集 所収2012・6/17) と考えています。

 
 パブリックヒストリーといった場合、私は「個人史も含んで」と記しました。定義に合致しないかもしれませんが、地域博物館が地域の総合的な記憶装置であるならば、その基礎要素である家族史の問題も視野に入るべきだろうと考えています。博物館のユーザー側から見れば、図書館にレファランスという機能があるように、地域博物館においては、個人としての市民が自らの歴史を叙述する為のレファランス(叙述支援)のような機能をもってしかるべき、であろうと考えるのです。たとえばいわゆる団塊の世代は社会現象としての核家族という実態を過ごしてきました。是はそれまでの成長過程の地域とは別の地域に居住・生活をしてきた経験の総和をもっており、その総和を誰にどのように伝達しうるかと言うことです。祖父母からの伝承や地縁経験は途切れざるをえません。当該世代以降私たちの多くは、核家族という生活スタイルを「理想」とし、自らの出生・生成の地域(ふるさと)とは別に生活域を設けて暮らしてきたわけですが、いわゆる平成40年問題(墓地業界で言う大量の墓地需要・子孫係累に墓守としての継承を望まない自己始末)の前で、自分史を地域史の延長で捉えることが困難になっています。地域や家族紐帯からの「解体」(姓氏の解体)を自ら望んだといえばそれまでです。「公」が地域の集合記憶装置であるならば、「私」は「自伝」すなわち今風に言えばプロフィールのタイムライン化を通した個人的な記憶(自伝)の中でとどめておくべきであると言うことになるのでしょうか。一般に「公」が「私」を取り込む場合は 「私」が「公」として認知される必要があります。従来で言えば「某氏記念館・偉人館・先人館」や「文学館」などがそれに該当すると思いますが、それは一般に望んで出来るというものではない事は事実です。ですから「自伝」は「個人の責任の範囲で勝手に叙述すればよい、ただあなたの履歴に関心のある人はごく僅かで有り、その僅かな身内ですら私の自伝に関心を向けることがないかもしれない」という言説があるならばそれは正しいとも考えます。それでもなおパブリックでないプライベートも存在しないのも事実であろうと考えています。


 午後のセッションでは、本年新設の平和祈念館の実践報告がありました。一般的にこの種の施設はその性格から言って先のアジア・太平洋戦争(十五年戦争)下での市民の労苦を知り、今日の繁栄の感謝と平和への希求を行う目的で設置されたと言えるでしょう。従って行政立では教育部局よりは厚生・総務市民部局などが主管となることが多いようです。私はこの種の施設の活動を歓迎する立場にはいます。これもまた可能性としてのパブリックヒストリーの現場であるからです。報告にあった滋賀県平和祈念館の今後の活動に期待しております。私は発表の後一つの質問をさせていただきました。それは私が直接、ある学芸員から聞いたことですが戦争下の遺品を持ち込まれても博物館としては受け入れることが出来ないという傾向についてです。すなわち「軍服」などのような軍装品など故人が「大切にしていた」物を、遺族が博物館に持ち込んでくると言うことを指しているらしいのです。遺族にしても処分に困ると言うこともあるかもしれませんが、少なくとも亡くなられた故人も含め、それらのものが「公的なもの」という認識を持っていると考えるから寄贈の申し入れをするのだと考えています。「軍歴」を示す軍隊手帳や関連する遺品などは故人にとってかけがえのないものと考えると同時に、公的に返納するという意識が働いているからなのだろうと思います。的確な質問ではなかったと後から反省はしたのですが、資料受け入れ原則の再度の説明と受け入れにあったては資料を吟味した個別対応というご回答で了とさせていただきました。パブリックヒストリーとしての地域戦争体験(それは加害や被害の区別無く)は「公」として避けられない課題だと思います。郷土部隊としての活動や戦時下の暮らしは家族の同時進行の歴史でもあったのだと思います。

(未完)
2012/6/19