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考古学教育への期待2

2012-06-01 19:58:17 | 考古学教育

考古学教育への期待2

1 考古学を通して歴史を叙述するに際して、どのような時代を対象とするにせよ常にある限界を持ち続けている。それは対象とする遺構・遺物がまさに「遺」であり、「物」であることに起因する。研究者は「遺」の状態を所見する事により、さらに「物」を通して「事」を解釈する。遺跡に対して所見を獲得する行為は、層位(時間)と型式(行為と空間)の分析を駆使した歴史認識の過程である。科学として歩んできた近代考古学は、実証精神を拠り所として、また、その固有の方法論を以て例えば先史社会を論じようとしてきた。文字による記録対象でもなかった人間の重要な営みは、その想像力の導き手として、確かな記録や民族・俗事象を援用して、思考の補助を行ってきた。その営みは続いている。この営みに時代対象の限定がないのは、「土地に刻まれた歴史」(古島敏雄・1967)を示すまでもなく、土地(陸)は地の塁層を増減させながら現代に続いているのだから。
2 さて、子供達に考古学を説明する際に、以前には、発掘をある犯罪事件の現場を警察が検証を行うことにたとえた。捜査は、現場に残された痕跡や遺留品などの物的証拠から犯罪性を検討し、犯人を類推する。発掘もそのような物である、と。子供達への説明はここで終わる。しかし事はこれからである。仮に犯人を特定して、罪を明らかにしたとしても罰を与えることはできないであろう。犯行に至った経緯や動機、また結果に対する認識等が加えられ、ある基準の中で本人の再生にかかる意志や被害感情、社会の意志などから裁判が行われ罰が加えられる。これが一つの物語である。事の顛末である。同じ犯罪行為でも、場合によっては軽重が生まれ、時としてえん罪という別な物語も生じる。発掘はこの物語の発端の一部に過ぎない。物語を完成させるためには、例えば地震災害を示すの町屋においては、極端な言い方を許していただければ、ゴミ坑に集積された遺物を見て、住民の再生への意志なのか、悲しみの中での片付けなのか、あるいは都市計画におけるように命令があり住民の意思とは別にあるのか、どのように見るかでシナリオにおける住民の表情は変わってくる。物は廃棄・遺棄・埋納・持ち去りによる欠品など様々である。そしてそれは生活の物質文化の全てではない。それぞれの行為におけるいわば心性も含んではじめて物語となるのであろう。
3 (略)
4 江戸遺跡研究会が編纂した『災害と江戸時代』(2009・吉川弘文館)において、古谷尊彦は工学の立場から「自然災害と考古学」と題して、示唆的な提言を行っている。古谷は、考古学を「土層断面と各層の面の広がりに内包する物証によって、人の思考を経由せず、文字に書かれていない、過去の人と自然が関わった歴史を把握、考察できる学問領域」と認識し、「その場所」における遺跡化のプロセスは「(自然の営為による)現象と人間の側との相互関係」とみてとる。さらに災害史の研究において「自然のマイナス要因に対処する技術の獲得が安定な生活の保障につながり、その技術が具体的にどのようなものであったか、検出する必要がある。」ことを取り組む課題として提起する。古谷の提起することを私なりにとらえるならば、「その場所」、つまり遺跡発掘現場とその四囲は「定点」であり、その定点に依拠して、自然との類的存在としての人間の歴史の解明である。いわば定点観測なのである。災害を乗り越え継続して生活を再構成する人間の営みである。
 私自身の調査例で言えば、東京近傍三浦半島の漁村の近くに立地する遺跡での経験がある。(1990)調査地に乗り込んだとき、棚田状の畑地の耕作は既に放棄され、丘陵鞍部の土砂が大部分削り取られ、残っていた平地は荒れ地となっていた。斜面部に路頭する基盤は風化泥岩の層で、地滑りにあった痕跡を残していた。かつての斜面部は地滑りによって階段状の平場が形成され、人は耕作地に変えた。詳細に検証すると、地滑り災害が発生した以降、事業面を形成し、段差を利用して家を建て、柱穴の観察から少なくとも建て替えも行われた。居住したのは判出遺物から16世紀頃と考えた。段差の中間部には集石溝が施され排水を意識した構造を呈していた。残念ながら地滑りの発生時期を特定するには至らなかったが、記述にない土地の歴史に一石を投じることができた。同時に地滑り跡地を利用した生活態様に光を当てることができたのである。
5 江戸遺跡といった場合、江戸を空間として措定する都市を意味する事のようである。近世考古学のうち都市江戸を定点として、都市江戸を構成する人々の生活や観念を、考古事象から検討し東京再開発の今を見ようとする。その契機は戦後復興の都市東京が新たな展開を見せたからである。これは1970年代から起こる都市民俗学なども期を一にしながらとも思える。江戸は17世紀以降、「普請」と 「復興」を繰り返してきた。近世考古学は都市江戸をフィールドとして、変貌のレイヤーを描いてきた。一般に言われる「都市と農村」の問題は、江戸と近郊、天領下の村や宿場の実態、同時に地方都市(藩政下の都市生活)課題を拡大して行くに違いない。同時に昭和19年から20年にかけて行われた米軍による都市無差別爆撃以前の近代遺跡へと対象時代の拡大を進めている。定点における歴史層の叙述は文献・民俗・考古学の方法論も含めて境界領域を拡大しながら進められて行くに違いない。
2010年1月23日レポート初稿。2012年5月23日FB用改訂